北信濃の国人領主支配

742 ~ 747

室町中期には、幕府や鎌倉府の公権力に依存した守護の分国支配を克服して、自立的な地域的領主権力の確立を指向する活動が活発化した。この実情を、北信濃の有力国人である高梨氏の場合を例にとってかいま見てみよう。

 南北朝時代すえの明徳三年段階における高梨氏の所領については、高梨氏惣領の朝高が自身と一族・給人の所領を書き上げて、その安堵を幕府に求めた言上状(ごんじょうじょう)にうかがうことができる。それによれば高梨氏の所領は、惣領の朝高が領有していた現松川以北の高梨本郷(橡原荘)以外に、高井・水内の両郡内にわたって広く散在していたことが知られる。高井郡内には惣領家の領有地である安田(飯山市)・吉田(同)・北笠原上条郷内夜交(よませ)村(山ノ内町)などがあり、長田(保科)御厨内善哉(ぜんざい)郷(若穂)は給人の江部(えべ)氏が知行するところとなっていた。また、水内郡郡域には惣領家の高梨氏が領有する公領(国衙領)の大倉・和田・高岡・上長沼の各郷などのほかに、若槻本荘(若槻)・新荘、芋川荘(三水村)、広瀬(ひろせ)荘(芋井)、東条荘、太田荘および常岩御牧のうちと、善光寺周辺に分布した公領のうち上長沼、蔵井、高田、北中島の諸郷などに、一族庶子や給人の知行地が所在していた(以上『信史』⑦『高梨文書』)。

 これにたいして本格的な地域的領主制が領主間の抗争をもって展開される前夜の室町中期、高梨氏に関する所領の全貌(ぜんぼう)がどのようなものであったかは明確ではない。わずかに諏訪上社の頭役勤仕を記録した『諏訪御符礼之古書』に記載される高梨氏関係の所領地を追うことによって、同氏の所領構成の一端を知ることができるばかりである。こうした点を考慮に入れて、応仁・文明の乱直前までの室町中期を中心に高梨氏の所領を整理してみると表3のようになる。


表3 室町中期の高梨氏所領構成(『諏訪御符礼之古書』記載の所領のみ)

 この表によってみれば、高梨氏が知行地とした所領は一三を数え、そのうち八郷村がいまの松川以北から小布施町、中野市南部の範囲にほぼまとまって位置していたようすが明らかとなる。高梨氏惣領家の所領である高梨本郷以下、狩田(かりた)(小布施町)・山田(高山村)・江部・新保・新野・大熊・北大熊(以上中野市)の諸郷村がこれに該当する。南北朝すえから約半世紀余りをへた室町中期の高梨氏所領は、千曲川以西の水内郡一帯から北上して、千曲川以東の高井郡へと移行していることが知られる。高梨氏惣領家の主導のもとに、散在入り組みの状態であった所領はしだいに整理され、一円的な集中性をもつ所領として形づくられるようになってきているようすがうかがわれる。

 表3にみえる高井郡東条荘内山田郷は、寛正七年(一四六六)以来、高梨氏の有力庶子家である山田高梨氏の高朝が、山田城(枡形(ますがた)城とも)によって支配する領主基盤地であった。高朝は大熊峠を掌握して、文明年間(一四六九~八七)には山田郷に隣接する東条荘内大熊郷に知行地を伸ばし、さらに大熊郷の北に位置する同荘内江部郷にまで支配を拡大するほどであった。高朝が支配を浸透させようとした大熊郷は高梨房高が、江部郷は同道朝が、それぞれ領知する所領であった。高朝は同族を制圧することによって、知行地の拡大をはかったのである。

 高梨高朝のこうした領域支配の拡大にたいして、文明十六年(一四八四)に高梨惣領家政高の嫡子政盛(まさもり)は、高朝が高野山参詣に出かけた留守中に山田城を襲撃して、高朝の本拠地である山田郷を押さえ、ついで大熊・江部の両郷を奪いとって高朝を没落させた。政盛は大熊郷に高梨将秀を、江部郷には高梨道朝にかえて同高秀をと、いずれも高梨氏庶子家のものを配置して知行させている。同族の有力庶子家を武力攻略するという代償を払いながらも、高梨氏惣領家による支配所領の一円・集中化が推しすすめられているのである。こうして惣領家の政盛は、庶子家に所領の給与や安堵をおこなうことによって、封建的主従関係の編成に着手し始めたのであった。

 こうした高梨氏の地域的領主支配は、庶子家や周辺の非血縁的な中小領主層に知行地を給与し、あるいは承認するなどして家臣(給人)化するという、知行制的編成をとることをもってすすめられた。その場合、高梨氏はこの家臣としたものを一門の所領代官などに登用して、郷村の経営にあたらせるところにおいていた。そうしたことは、表3のうちにみえる江部氏ら二、三の領主層についてみることができる。

 高井郡高梨本郷や同郡東条荘内新保郷などの代官に任じられた江部高秀、同入道沙弥(しゃみ)常光、同高長らの江部氏一族は、明徳三年ころには江部山城守(やましろのかみ)が高井郡長田(保科)御厨内善哉郷を高梨氏から本領知行地として認知され、高梨氏の給人として位置づけられていた。その江部山城守は大塔合戦のおりには高梨朝高の旗下として参陣したところから知られるように、中位クラスの国人と目される領主であった。それが表示に明らかなように、享徳三年(一四五四)ころには、江部高秀は高梨氏の名字を冠称(かんしょう)し、高梨氏から新保郷の知行を認められて同氏の家臣として組織・編成されるにいたっている。

 さらに高梨氏惣領家が善光寺周辺に領有していた和田郷(東和田・西和田)には、吉田入道沙弥那何(なか)が代官に任命されている。この吉田氏は、水内郡東条荘内の吉田村(吉田)を名字の地とする地侍であったと考えられる。その吉田村は桐原・宇岐(うき)(木)・小鹿野(おがの)・長島の四ヵ村とともに連合体を構成して、古井(こい)郷(三輪から吉田一帯)と呼称される惣郷を形成したうちの一惣村であった。

 こうした惣郷である古井郷(村)の下部単位組織でもあった一惣村の小鹿野村は、原善胡あるいは同真高の知行する一村落であった。このうち真高は、諏訪上社側からは「小鹿野殿」(『諏訪御符礼之古書』)と殿の敬称を付されていたところからみて、惣村内の一般百姓とは明らかに区別される特権的な身分にあったことが知られる。この殿づけをもってよばれた原氏は、表3中にみえる高梨氏が領有した高井郡東条荘内新野郷の代官に任じられていた原秀長とは、同族の関係にあった可能性が高い家筋であったと判断される。そうした点で原氏は、先の和田郷代官に補された吉田氏と同様の地侍であったとみることができよう。吉田・原氏らは惣村内に身をおきながら一般の百姓たちとは区別され、郷村内において指導的な立場に就き、優越した身分や地位を得ていた階層のものたちであったということができる。それが有力国人である高梨氏の代官、すなわち、家臣化することなどによって、従来から郷村内にもっていた諸種の権益や支配的な立場をより確実なものとし、同時に、その地域の支配権力をにぎる領主へと上昇・転化することを指向していたことが考えられる。


写真18 古井郷を形成した吉田付近

 室町中期には、このように高梨氏は所領を一定範囲内に集積するかたわら、庶子家や近隣の地侍など中小の領主層を封建的主従関係にもとづく家臣団に編成して、十分な軍事動員をもおこない得るような領主支配を築くために努力を傾注していたのである。高梨氏にとってこのことは、単なる一国人領主としての支配様式の枠(わく)を越えて、独自の地域的領主制を本格的に展開していくうえから欠かすことのできない営為(えいい)でもあった。