太田荘領家年貢をめぐる紛争

748 ~ 751

室町時代になると、現地の国人(こくじん)・地頭らは領地にたいする「当知行(とうちぎょう)」の権利を強め、荘園年貢(しょうえんねんぐ)の納入をなにかと怠るようになった。現地を実力で支配していることを当知行とよぶ。正式な安堵(あんど)状がなくても当知行による実力支配が二〇年におよぶと、その知行権を公認するという鎌倉幕府法があった。南北朝時代から室町時代には、国人や地頭でも当知行を拡大し年貢の納入を渋るようになっていた。

 島津氏は鎌倉末期までに、太田荘内の神代(かじろ)・南郷(みなみごう)・浅野(以上豊野町)・津野(長沼)・小島(柳原)などの諸郷を支配して現地に土着しつつあった。建武年間(一三三四~三八)には島津宗久が大蔵郷(豊野町)を足利尊氏によって安堵されたとして金沢称名寺(しょうみょうじ)領に勢力を伸ばし、その年貢納入を滞納するようになった。金沢称名寺(横浜市)は幕府や鎌倉府に働きかけて、島津氏の現地支配をやめさせようとした。建武二年(一三三五)足利直義(ただよし)は金沢称名寺の大蔵郷支配を安堵し、暦応(りゃくおう)元年(一三三八)島津宗久に大蔵郷を称名寺に返却するように命じた。しかし、在地の島津氏(宗久跡)代官らは、隣郷の高梨能登守経頼父子などと手を結び幕府や守護が派遣する両使に反抗しつづけた(写真19)。文和(ぶんな)二年(一三五三)になってもけっきょく島津氏と高梨氏らの地域連合が大蔵郷の在地支配を確保しつづけた。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)や南北朝内乱が、当知行をつづける島津氏や高梨氏の側に有利に働いた。


写真19 金沢称名寺雑掌言上
称名寺雑掌が、島津氏は高梨氏と連合して年貢横領をしていると訴える。(横浜市金沢文庫蔵)

 しかし、至徳(しとく)元年(一三八四)幕府管領斯波(かんれいしば)氏一門があいついで信濃守護になって信濃を支配するようになると、政治情勢に少しずつ変化があらわれた。この年に幕府の管領斯波義将(よしまさ)の弟義種(よしたね)が信濃守護になり、守護代として二宮(にのみや)信濃守氏泰(うじやす)が任命された。二宮氏は子息の余一種氏(たねうじ)を信濃に派遣して平芝(安茂里)の守護所に在駐させ、島津・高梨ら現地の一揆(いっき)に軍事的に圧力を加えたのである。

 荘園領主は、荘園を寺社に再寄進したり将軍や守護の権力に依拠して、直接支配できる郷村から京都に納める領家(りょうけ)年貢を確保するため懸命の努力をした。太田荘の領家職をもっていた近衛基嗣(このえもとつぐ)もこうした政治情勢をみて、領家職を京都の東福寺海蔵院に寄進した。海蔵院はかれが師と仰いだ虎関師錬(こかんしれん)の寺で、師錬は亀山天皇・光厳(こうごん)天皇をはじめ足利尊氏・直義の信頼も深かった高僧であった。

 近衛基嗣は太田荘からの年貢を徴収する新しい体制を構築するため、至徳元年に幕府や信濃守護と具体的な交渉を始めた。その結果、十一月十五日には太田荘年貢納下注文という収支決算書が作成された。それによると、この年領家の東福寺海蔵院は現地の南郷と押切(おしきり)在家を当知行し、年貢の支払いを怠る島津氏や高梨氏らにたいしては守護代二宮氏によって圧力をかけて年貢を確保しようとした。氏村名(うじむらみょう)と押切在家の年貢五八貫文を収益とし、南郷の年貢四二貫文を二宮方に支払うことにした。この氏村名はこれまでにはみられなかった新しい領主名で、南郷をふくんで徴税の単位として設定したものであった。押切は現在、千曲川の対岸小布施町の地名として残る。中世の千曲川は蛇行して現在よりも東側を流れており、中世の押切は南郷に隣接し千曲川西岸にあった。押切は室町時代に千曲川の氾濫原(はんらんげん)に開発された新しい在家であった。こうした現地の実情を寺家でも掌握して徴税を実現しようとしていたのである。


表4 太田荘年貢納下注文

 海蔵院では代官僧として聖澦(せいよ)を派遣し、年貢運上のための人夫の賃金を加えて三六貫文を納入させ実質的な収入とすることができた。しかし、支出も多く守護代二宮氏には点心・引物代・蝋燭(ろうそく)代として一〇貫文を渡した。代官僧の聖澦が二度上洛(じょうらく)し、一度現地とのあいだを往復し、今回分の使者の料物代として七貫五〇〇文が支出された。また四貫五〇〇文が代官給として二人の代官に支払われた。このほかに、海蔵院の臨時収益として瓶代二八貫八〇〇文が計上され、人夫代を差し引いた二四貫文が収益となった。

 太田荘から年貢を確保するため、領家海蔵院は守護代に巨額な出費をしたことになる。しかし、現地の南郷はもとから島津氏の根拠地であり、その年貢分四二貫文を守護代二宮氏の取り分にされても、領家側からみればもともと島津氏から年貢を納入させることのできない土地であったから、損得に変化はなかった。実質的に六〇貫文の領家年貢が収入になったのだから、領家側にとっては島津氏と交渉するよりも守護代との交渉のほうがはるかに効果的であった。

 翌至徳二年十一月七日、足利義満は海蔵院の太田荘支配を保障する将軍御判御教書(ごはんみぎょうしょ)を発給した。幕府も、守護代二宮氏に依拠して領家年貢を徴収するこの体制を海蔵院に保障した。こうした領家年貢の運上体制ができあがると、南郷の年貢分をめぐって、在地の領主である国人島津氏と守護代二宮氏との直接対決が激化することになった。