国人島津氏の反抗と嘉慶の乱

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こうした将軍・幕府・守護・守護代と荘園領主の近衛家・海蔵院など中央権力が一体となった圧力のもとで、太田荘内でしだいに追い詰められた島津氏はどのような対応をしたのであろうか。

 島津氏は鎌倉末期に薩摩(さつま)の伊作(いさく)島津氏や本宗島津家、越前島津家、若狭(わかさ)島津家などに分家してそれぞれ独立する傾向にあった。太田荘内の郷や村も、伊作島津氏や本宗島津家が薩摩から派遣した代官によって支配されていたが、南北朝時代になってようやく現地の信濃島津家が自立するようになった。初代の信濃島津氏は長沼国忠と称している。かれは太田荘に土着して周辺の高梨氏らと地縁関係を結んで活動しはじめた。国忠は嘉慶(かきょう)元年(一三八七)四月二十八日、高梨朝高や村上頼国、小笠原清順ら信濃国人とともに、多数の兵を率いて善光寺に兵をあげ守護代二宮氏に武力で抵抗した。五月二十八日には平芝の守護所に二宮氏を攻め、漆田(うるしだ)(中御所)でも合戦におよんだ。二宮種氏は守護代の父氏泰に援軍を要請した。氏泰は能登方面から糸魚川をへて信濃に入部し、水内郡常岩(とこいわ)(ときわ)中条(飯山市常盤(ときわ))で高梨・村上軍を破り、八月二十七日に善光寺の横山での決戦になった(写真20)。


写真20 二宮氏泰書状案(県立長野図書館旧蔵)

 島津氏の抵抗は、北信濃の高梨朝高や村上頼国などの北信の国人層を結集させ、そこに小笠原氏の一部まで加わって守護代二宮氏の軍事力と直接対決する内乱状態に発展したのである。このような国人らの軍事連合を国人一揆(こくじんいっき)とよぶ。二宮氏の軍事力によっても、長沼国忠ら国人一揆を押さえこむことができなかった。幕府はこの乱を鎮めるため、同年九月信濃守護職を斯波義種にかえて兄の幕府管領斯波義将に交代させた。長沼国忠の抵抗は国人一揆と連合してついに守護代二宮氏を追い落とし、幕府に信濃守護を交代させたのである。北信濃の国人一揆の蜂起が幕府から譲歩を引きだした最初の事件であり、これを「嘉慶の乱」とよぶ。

 信濃守護となった斯波義将は、それまでの弟義種の軍事力に頼る強行路線を転換させ、島津氏ら国人との協調策をとり大きな軍事行動をしなくなった。しかし、応永(おうえい)六年(一三九九)斯波義将が信濃守護を辞任し、十月に小笠原長秀が信濃守護職に任命されると、ふたたび軍事対立が激化した。太田荘の島津国忠は長秀代官の信濃入部に反対し強訴(ごうそ)に出た。十月二十六日、守護小笠原長秀は一門の赤沢秀国と櫛置(くしき)清忠の軍勢を派遣し、守護方の両使は石渡(いしわた)(朝陽)に陣をとった。石渡今井にいまも土塁跡が残る。この地はほんらい島津国忠と一揆を結んでいた高梨氏の所領で居館であったから、この小笠原軍の進駐にたいして高梨氏は守護軍に味方し、国人一揆の足並みは乱れた。この石渡合戦では島津氏一族も分裂し、国忠は敗れた。

 この敗北を喜んだのは領家海蔵院であった。海蔵院は応永七年三月十六日、太田荘領家職を島津・高梨らが横領して困ると幕府に訴えでた。幕府は島津氏や高梨氏らを横領人と決めつけ、乱行の停止を守護小笠原長秀に命令した。またもや、幕府と守護は太田荘の領家海蔵院の味方となって、現地の国人らに圧迫を加えてきたのである。荘園領主の海蔵院は京都にありながら信濃の政治情勢をよく把握しており、現地の長沼島津氏や高梨氏らを荘園を横領する張本人として告発した。守護長秀は北信濃の国人らを統制する好機到来と判断し、信濃に入国する準備をととのえた。七月三日幕府の許可を得て京都をたち、七月二十一日佐久郡大井(佐久市岩村田)に向かい、小笠原一門の大井光矩(みつのり)の協力を取りつけ、北信の国人らに使者を派遣し守護に服従するよう命じた。この間の七月十九日、長秀は太田荘領家職を海蔵院雑掌に保障するように現地の小笠原清忠に指示した。小笠原清忠は七月二十六日に、島津氏に領家職を海蔵院雑掌に打ち渡すよう命じた。国人島津氏と小笠原一門との対立が頂点に達した。

 守護長秀は八月には善光寺に入部し国務を開始した。善光寺奉行人を設置し門前に制札を掲げ諸人沙汰(さた)を遵行(じゅんぎょう)した。長秀みずからが善光寺に入部して、信濃全域とりわけ北信濃を統括するため現地で行政執行を強化した。北信濃の国人や中小地頭らもことの重大さに気づきはじめた。小笠原氏を古敵当敵(こてきとうてき)とする大文字一揆(だいもんじいっき)は、長秀の守護罷免(ひめん)を要求して立ちあがった。窪寺(くぼでら)氏を中心に小田切・香坂(こうさか)・落合など犀川流域の中小地頭らの一揆である。九月二十四日には守護長秀軍と国人一揆軍とがついに更級郡横田・四宮河原で衝突、ここに大塔(おおとう)合戦が起きた。その詳細は本章第一節でみたとおりである。

 大塔合戦は守護長秀の敗北で終わったから、太田荘からの領家年貢の確保はこれまで以上にむずかしくなった。反対に島津国忠ら国人らにとっては、京都への年貢納入が少なくて済み、多くの得分を確保できるようになった。在地の生産物が現地に富として蓄積され流通するようになった。ひとつの荘園年貢をめぐる領家と国人との紛争が、幕府や守護のみならず在地の国人一揆をも巻きこんで大きな政治的軍事的衝突事件を引きおこし、守護支配を否定して守護を京都へ追い返すまでになっていた。なお、この大塔合戦では「島津」なる人物が守護長秀軍に加わって戦っていた。在地の島津国忠もすべての一門を反守護として統一できたわけではなかった。在地の郷や村を知行する勢力が相互に対立する内部矛盾が深まっていた。