応永の平和と市村高田荘の年貢納入

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国人らの地域支配は安定したものではなかった。幕府や守護、荘園領主らの巻きかえしも当然強化された。応永九年(一四〇二)、幕府は信濃を幕府料国として将軍足利義持の直轄(ちょっかつ)下におくことにした。幕府代官のもとで六月、両使として依田・飯尾氏の二人の奉行人(ぶぎょうにん)が派遣され、東大寺が知行していた国衙(こくが)領をふくめて信濃国衙分の調査を実施した。信濃の守護領や国衙領は、幕府政所(まんどころ)の直接支配下におかれた。幕府が直接信濃国内の所領の現状を把握するようになった。国人らにたいする軍事的圧力も強まる。

 応永九年、幕府代官細川滋忠(しげただ)は奥郡(北信四郡)平定に乗りだした。翌十年、府中(松本市)をたって水内郡檀原(だんばら)(篠ノ井小松原段原)、埴科郡生仁(なまに)城(更埴市雨宮)、更級郡塩崎新城(篠ノ井塩崎)を落とした。応永十一年九月には、水内郡桐原(吉田)・若槻(若槻)・芋川要害(三水村)・加佐(かえさ)(豊田村)・蓮(はちす)(飯山市)・東条(市内各地)などで高梨氏らの反抗を平定した。この結果、応永十二年から二十二年にかけて信濃ではまったく戦闘は記録されていない。信濃における「応永の平和」の時期が始まったのである。北信濃の国人らは小笠原氏の支配には反対したが、将軍による信濃の直轄支配には服したのである。国人は将軍の家臣であるという意識が信濃では強化されていった。

 応永の平和の時期には、京都の荘園領主がふたたび善光寺平からも領家年貢を確保できるようになった。応永十二年、京都の公家山科家の当主教言(のりとき)は、信濃国住吉荘(すみよしのしょう)(南安曇郡三郷村・豊科町一帯)・市村高田荘(芹田・古牧)など五ヵ荘の領家年貢について僧建徳庵(あん)を請人(うけにん)として毎年一〇貫文を納入することで請負(うけおい)契約を結んだ。十二月になると五貫文が早速山科家に到来し、つづいて二貫文が届けられた。久し振りに年貢が納入されるようになった山科教言は、このことを「祝着(しゅうちゃく)」と喜んで日記に記録している。翌年二月、山科家では信濃五ヵ荘の奉行人として源清幸を補任(ぶにん)した。幕府の要人と交渉して領家年貢を確保する専門家を登用したのである。閏(うるう)六月には、昨年の未納分三貫文を催促するため清幸を僧建徳庵のもとに派遣して、納入させることに成功した。この僧は京都の一条烏丸(からすま)に居住しており商人として活動している。この当時信濃は幕府料国であったから、年貢徴収のためには幕府の協力が不可欠であった。山科家も五ヵ荘奉行人清幸を十月幕府奉行人飯尾貞之(さだゆき)、十一月には同じ奉行人斎藤玄輔(げんすけ)のもとに派遣して協力を取りつけている。十一月には年貢が割符(さいふ)(中世の為替(かわせ))で送られてきたが、替銭屋(かえぜにや)が逐電(ちくでん)(逃亡)してしまった。それでも四貫文・五貫文・一貫文と三回に分けて納めさせることに成功した。喜んだ山科教言はみずから請取状を発行している。応永十四年には僧建徳庵から教言に信濃棗(なつめ)一折が届けられ、四月には幕府代官細川氏と音信を交わしている。十一月十五日にはまた割符が届き、翌日一〇貫文に換金した(写真21)。


写真21 教言卿記
山科教言の日記で、信州からの年貢到来を記している。(宮内庁書陵部蔵)

 しかし、この時期信濃の交通路がまったく安全であったわけではない。山科家の請人であった僧建徳庵が翌十五年五月に横死(おうし)するという事件があって心配された。十一月には替銭屋によって二回に分けて一〇貫文が到来している。一条烏丸の禅律僧商人や替銭屋などの為替商人が遠隔地を往復して活躍し、田舎と都市の経済文化交流を推進していた。こうした領家年貢の確保も、当然、現地でこれに協力する荘官らが存在していたからできたことである。

 北市(芹田若里)の松岡周一宅付近には、土塁跡と池跡があり、中世の居館跡と推定される。竹林と樹木が茂り、用水路がこの場所で直角に屈曲し、仏導寺と隣接している。仏導寺には中世石塔が散乱しており、「明徳二年(一三九一)八月十八日来阿弥陀仏」という銘文をもった宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎部がある(『信史』⑦)。鎌倉時代の市村氏は幕府の滅亡や南北朝内乱で所領を失って没落したらしいから、それにとって代わった領主がこの地で市村荘の年貢を徴収して京都の代官や商人らに渡していたのであろう。この宝篋印塔がつくられた時代、この地の年貢が京都山科家に運上されていたのである。

 しかし、信濃における応永の平和もそれほど長くつづかなかった。それを破ったのは鎌倉公方(くぼう)と幕府方の関東管領上杉氏との内部対立であった。応永二十二年(一四一五)五月二日に関東管領上杉禅秀(ぜんしゅう)が鎌倉公方足利持氏と対立して罷免(ひめん)されると、六月信濃でも高井郡の須田為雄が乱を起こし幕府代官による追討がはじまった。須田氏が幕府に反抗しはじめたのである。争乱がつづき幕府や守護の権威が低下するにつれて、荘園領主の年貢確保も困難になる。文明・長享年間(一四六九~八九)以後には、京都の山科家はこの市村高田荘から年貢を確保することはできなくなった。山科家と市村高田荘との関係はまったく史料上消滅する。荘園はこうして有名無実になっていった。