守護被官となる侍衆と新しい郷村

757 ~ 760

国人・地侍の地域支配が進展しつつも不安定であり、幕府や守護による支配も部分的に存続できたのが室町時代であった。郷村の侍衆や豪族らは守護や有力国人の被官になったり、自立して守護や国人らと対抗しながら自分の生活と権益を守り伸ばそうとした。

 大塔合戦のとき守護小笠原長秀に味方した武士をみると、坂西(ばんざい)・飯田・古米(くめ)・櫛木(くしき)・常葉(とこは)・赤沢・下枝・下条らは小笠原一族といわれ、長秀直臣の馬廻衆の曼荼羅(まんだら)一揆は伊那谷の郡戸(ごうど)や春近(はるちか)などの地侍らである。中信・南信の人びとが多かった。しかし、善光寺平でも守護被官となった侍名字の人びとがいた。布施(ふせ)・宇木(うき)・中島・駒沢・荒屋(あらや)・稲富・和田・島津ら八人が守護方に組織されていた。

 布施・和田氏は、鎌倉の地頭御家人であった布施・和田氏と同名ではあるが、その実態は系譜や出自を別にしたもっと小規模な侍で、郷を本拠とした地侍と考えられる。島津氏は国人島津氏の庶子か一門のものであろう。稲富氏は稲舂(いなつき)ともみえるから、戦国時代の史料にみえる稲積(いなづみ)郷(若槻稲田付近)の侍であろう。宇木氏は宇木(三輪)の郷名を名字としている。この郷は嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)に小居(こい)(吉田)・平林(古牧)とともに諏訪大宮造営役をつとめていた。小居・平林が、条里地割の分布地域に立地し鐘鋳川堰(かないがわせぎ)の灌漑(かんがい)によるのにたいして、宇木は浅川の支流を用水路として再開発した三郎堰に依存した郷である。浅川扇状地の開発がすすむ一四世紀以後に発達した郷村であったと考えられる。その郷を知行した侍衆が字木氏であった。この一帯に居館跡が散在することはすでにみた。

 荒屋氏は平林の隣郷である荒屋(古牧)を名字としている。この地は湯福川や堀切沢の土砂の押し出しや洪水にあったところで、荒屋の地名も荒野の開発から起きた地であることを示している。災害が繰りかえされ用水の確保がむずかしい土地を室町時代になって開発し所領とした武士が荒屋氏であった。平林と荒屋の境には宝樹院があるが、この墓地には「延徳三天 南無阿弥陀仏 専阿」の自然石板碑(いたび)が残る(写真22)。延徳三年は一四九一年である。室町時代に開発された郷である。


写真22 延徳3年(1491)につくられた宝樹院の板碑
(飽田茂所有)

 中島・駒沢両氏は中島郷・駒沢郷の出身の領主である。これらの郷村はいずれも鎌倉時代にはみえない地名で、浅川扇状地に立地する。中島・駒沢両郷は明徳(めいとく)三年(一三九二)に北中島郷・中駒沢郷としてはじめてあらわれる。北中島郷は高梨入道彦五郎の本領知行地であり、地名は残っておらず浅川の洪水で廃村となったのであろう。中駒沢郷(古里駒沢)は高梨弥次郎入道昌頼の知行地であり、その内部には黒沼四郎の所領跡が含まれ高梨虎王丸の所領であった。この黒沼は赤沼に対応する湿地帯であったという(『朝陽村誌』)。駒沢川が千曲川の自然堤防に突き当たって後背湿地(こうはいしっち)を形成していたのであり、現在の景観とはまったく異なっていたようすがわかる。こうした低湿地を高梨氏が一門の協力で開発をすすめ知行するようになったのである。中島郷・駒沢郷のなかで、応永七年(一四〇〇)にはそれらの郷名を侍名字とする中島氏や駒沢氏が高梨氏とは別行動をとり、守護長秀軍に参加するようになっていた。郷村を地盤にして成長してきた土豪が侍名字を名乗り、郷を知行する国人とは別の守護被官になったりして、自立性を強め独自の行動をとるようになってきたのである。高梨氏ら国人の地域支配もこうした侍衆の自立によって内部に矛盾をかかえ、発展したり動揺を繰りかえしていた。

 それから約四〇年後の永享(えいきょう)十二年(一四四〇)、常陸(ひたち)国で結城(ゆうき)合戦が起きた。鎌倉公方足利持氏の子息春王丸・安王丸を奉じた結城氏朝が、常陸国結城城(茨城県結城市)を拠点に幕府に反旗をひるがえした。将軍足利義教(よしのり)は幕府軍を派遣し、信濃守護小笠原政康にも出兵を命じた。守護の軍事動員令に信濃のほとんどの国人侍衆が応じた。善光寺平でも二三氏二九人の国人諸侍が三〇番に編成され参戦した。その名簿はつぎのとおりである(『信史』⑧、第二節表2参照)。

若槻、栗田代井上孫次郎、島津、落合、小田切・小田切越後守・小田切遠江(とおとうみ)守、窪寺(くぼでら)、今井、立屋(たてや)、桑原・桑原対馬守、横田・横田式部少輔(しきぶしょうゆう)、寺尾、雨宮(あめのみや)、生仁(なまに)、清野、保科、西条(にしじょう)、西条越前守、仙仁(せに)、漆田(うるしだ)、市村・市村阿波守・市村小次郎、桐原、雁箱(かりばこ)、長島

 これらの国人地侍のうち鎌倉以来の地頭御家人の氏名を継承しているものは、若槻、栗田、井上、島津、落合、小田切、窪寺、市村、保科など九氏にすぎない。それとても、鎌倉御家人の家柄をもった本宗家との直系の血縁関係があったとはとうてい考えられず、土着した一門の関係者で郷や村を基礎に再登場した侍衆で、鎌倉御家人とは所領も経営方式もまったく異質な領主であり有力な農業主であったと考えられる。いっぽう、今井(朝陽石渡)、立屋(芋井上ヶ屋)、桑原(更埴市)、横田(篠ノ井横田)、寺尾(篠ノ井・松代町)、雨宮(更埴市)、生仁(同)、清野(松代町)、西条(同)、仙仁(須坂市)、桐原(吉田古野)、長島(廃村)などの諸氏は、鎌倉時代にはみえない郷や村の侍名字である。

 立屋氏は芋井上ヶ屋に字名で残る立屋の郷名を名乗った武士で、飯縄(いいずな)神社のふもとの山間地帯の郷から出た侍衆である。横田・寺尾・雨宮・生仁・清野は、千曲川の乱流に沿って形成された自然堤防・後背湿地・中州(なかす)地帯に開発された郷村である。桑原は、更埴市内で稲荷山(更埴市)と麻績(おみ)(東筑摩郡麻績村)を結ぶ交通路の要地で、西条は松代町、仙仁は須坂市内にあり、いずれも崖錐(がいすい)扇状地の上部に位置する。桐原・雁箱(古里金箱)・長島なども、鎌倉末期から室町時代になって浅川扇状地の末端で開発された新興の郷村であった。こうしてみると、室町時代には鎌倉時代とはちがった新しい郷や村がこの善光寺平にも開発・形成され、その郷や村の名を侍名字とした侍衆が数多く登場するようになっていたことがわかる。室町時代は一面で、新しい侍名字の人びとが歴史の舞台に登場した活気あふれる時代でもあったといえよう。