まず、守護所が平芝(ひらしば)(安茂里)にあったからその周辺が一大根拠地であった。平芝の隣郷が漆田郷(中御所)であり、小笠原氏の所領であった。現在は裾花川をはさんで両岸に分かれているが、中世には裾花川が今の南・北八幡川に沿って東流していたから当時は両郷が隣接していた。至徳四年(一三八七)五月二十八日高梨や村上、小笠原、島津らが平芝の守護所に攻めよせ漆田で合戦になったのも、漆田郷が守護領であったためである。旭山のふもとにあり、裾花川からの多くの堰(せぎ)の取水口を押さえるとともに、後庁郷(東・西後町一帯)や善光寺門前を管理・統括するために地理的にも要地であった。文安(ぶんあん)二年(一四四五)から翌年にかけて、守護小笠原政康の惣領職をめぐって小笠原宗康と持長の相続争いが信濃大飢饉(ききん)というなかで起こった。信濃文安の変であるが、このとき宗康は水内郡漆田原で敗死した。死去する前に弟光康に守護職などを相続していたこともあって、幕府は文安三年信濃守護職と守護領を伊那郡伊賀良(いがら)(飯田市)の小笠原光康に安堵(あんど)した。漆田郷が宗康の知行になり、享徳(きょうとく)元年(一四五二)にも漆田はやはり小笠原大膳大夫(だいぜんたいふ)持長の知行となっており、代官として山中頼直や飯沼氏が派遣されていた。小笠原氏の被官になった武士が入部して管理していた。
ところが、一五世紀半ば以後になると小笠原氏の姿がみえなくなり、かわって郷名を名字とする漆田氏が歴史の表舞台に登場する。寛正(かんしょう)三年(一四六二)には漆田式部尉(しきぶのじょう)秀興が知行人としてみえ、応仁二年(一四六八)から文明九年(一四七七)には漆田出羽守秀豊が知行している。この文明九年には隣郷の栗田氏と境争いからか、一揆に攻められ栗田氏へ城を渡したとある。翌年には漆田増太郎丸に交替しているから、秀豊が隠居させられ元服前の増太郎丸が知行人になったらしい。文明十五年にはふたたび漆田出羽守秀豊に復しており、長享(ちょうきょう)元年(一四八七)には漆田貞秀が知行人となっている。
こうして一五世紀後半からは漆田を名字とする武士が守護小笠原氏から自立し、秀興・秀豊・貞秀の三代にわたって存続したことがわかる。漆田郷も地元に根を張った漆田三代が実力で知行するようになった。かれらは式部尉や出羽守などの官途や受領(ずりょう)名をもらい、知行の郷名を名字とした侍名字をもつ武士で、新興国人ともよぶべき階層であった。中御所には字御所・堀・漆田の地名が残り、堀跡を残す屋敷跡には現在八幡社がまつられている。室町時代の漆田氏の屋敷がここであったことはまちがいない。この地の西北には観音寺(かんのんじ)があり漆田出羽守秀豊の墓と伝えられるが、現存のものは近世前半の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で後代に建てられたものである。漆田郷はこうして、守護小笠原氏にかわって郷名を名乗る新興国人が実力によって知行するように変化していった。