四宮

762 ~ 763

小笠原一門にとっては更級郡四宮(しのみや)荘(篠ノ井塩崎四宮)は古い所領であった。貞和(じょうわ)二年(一三四六)当時、四宮荘の北条は室町幕府の奉行人である諏訪円忠(えんちゅう)の所領で、その子女の所領も分布していた。同時に、小笠原直宗と宗氏の所領もあった。この小笠原宗氏の子孫から赤沢氏が分流し、四宮荘一帯に赤沢氏が勢力をもっていた。応水六年(一三九九)信濃守護小笠原長秀の入部に島津太郎国忠が反対したとき、十月十一日に小笠原赤沢対馬守秀国が小笠原櫛置石見守(くしきいわのかみ)入道清忠とともに守護使節となっている。赤沢秀国が小笠原姓をもちながら守護使に任命され島津氏説得の役割をになった。大塔合戦で四宮荘が主戦場となったのも、ここが小笠原一門の根拠地であったためである。

 この赤沢氏は代々対馬守を受領名とし、長禄三年(一四五九)には四宮荘が赤沢対馬守の所領であったし、代官に千田康信らが任命され文明元年(一四六九)まで知行していた。赤沢氏は筑摩郡浅間郷(松本市)にも所領をもち、刑部少輔康経(ぎょうぶしょうゆうやすつね)や駿河守(するがのかみ)頼経らが知行していた。浅間は「府中」と注記されるように国司が赴任したり、応永九年(一四〇二)幕府代官細川滋忠(しげただ)が宿直(とのい)警固の番役を命じたところである。文明十一年に赤沢左馬助(さまのすけ)は白河郷(松本市)と白姫郷(同)を当知行し、諏訪社大祝(おおほうり)諏訪頼満の即位式用の装束(しょうぞく)料支払いを拒否した。赤沢氏は更級郡四宮とともに筑摩郡浅間・白河・白姫にも大きな勢力をもっていた。京都にも進出し、細川氏の被官になる一族を派生させていた。康正(こうしょう)二年(一四五六)将軍義政の奉書を発した細川道賢は、その御使に赤沢新蔵人(しんくろうど)政吉を任命し、伊那小笠原光康のもとに遣わした。管領細川政元の被官として活躍した著名な赤沢信濃守朝経(ともつね)(宗益)もこの一族である。京都と信濃守護を結ぶ通信網は、赤沢氏がその役割を果たしていた。

 しかし、文明七年には、四宮から赤沢氏や代官千田氏の姿がなくなる。文明十二年には更級郡桑原郷(更埴市)の侍名字を名乗る桑原六郎次郎貞光が四宮の知行人としてあらわれる。五年後にも四宮郷は塩崎源貞光が知行し諏訪頭役(とうやく)を勤仕(ごんじ)した。四宮荘の一郷にすぎない塩崎を侍名字とする塩崎貞光こそ、隣郷の桑原郷の桑原貞光と同一人物であろう。かれは桑原と塩崎の郷を根拠地にした国人であり、応仁・文明の乱のなかで小笠原一門の赤沢氏にとってかわったのである。室町時代前期には、島津・高梨・村上・大井など鎌倉以来の地頭御家人の系譜をもった国人らが国一揆(くにいっき)を結び守護に対抗した。室町後期のこの時期には、複数の郷を知行地とし在地の郷名を名乗る新興の国人衆が、歴史の表舞台に登場しはじめたのである。