小島田

763 ~ 764

小島田(おしまだ)郷(更北小島田町・松代町小島田)は永徳三年(一三八三)当時、小笠原長基(ながもと)(清順)の所領で、子息長秀に譲与した。ただし、舎弟(しゃてい)土用犬丸の知行を認め、男子なき場合は長秀の知行にもどすことにしている。この地は、犀川の渡河点であり市村(いちむら)の渡しへつづく交通の要衝(ようしょう)であった。鎌倉時代から善光寺領で渡し場であったことはすでにみた。小笠原一門も小島田郷の支配をつづけ後庁・漆田への渡し場の拠点を確保していた。しかし、その支配も一五世紀くらいまでであったらしい。永正(えいしょう)十年(一五一三)には「村上・香坂領中に候小島田と号する地において中野牢人相集(あいつど)うの由」(上杉家文書)とみえ、牧野島(信州新町)の香坂氏や坂木(坂城町)の村上氏がこの地を知行するようになっていた。国人の香坂・村上氏が守護領を侵食して自力で支配するようになったのである。

 こうしてみると、守護領の漆田・四宮・小島田郷ではいずれも文明年間(一四六九~八七)には小笠原氏の支配がほぼ消滅し、郷名を名乗る在地の新興国人層によって知行されるようになっていた。文明年間の一五世紀後半には守護の権力が善光寺平におよばない状態になり、郷名を侍名字とする在地の侍衆や国人らが地域支配の主体者に成長していたのである。