高梨氏と六ヶ郷用水

764 ~ 771

室町後期に善光寺平でもっとも勢力のあった国人は高梨(たかなし)氏である。その実像をみてみよう。明徳(めいとく)三年(一三九二)高梨朝高(ともたか)は一門の所領を書き上げて将軍足利義満に注進(ちゅうしん)した。高梨館(やかた)(中野市小館(おたて))を根拠地とした高梨氏は将軍の御家人でもあった。その所領目録によると、高梨氏の所領は北信四郡に散在し荘園制の枠をはるかにこえていたことがわかる(『県史通史』③)。高梨氏は高井郡を根拠地とし、北信で村上・島津らと肩を並べる有力国人であったが、しだいに善光寺平にも進出し、長沼島津氏らと一揆を結びながら当知行の地や開発地を拡大していた。水内郡周辺の所領を整理するとつぎのようになっている。

  和田郷并(ならびに)高岡                       朝高

  上長沼知行分                            朝高

  東条(ひがしじょう)荘内石渡部(いしわたべ)・堀・尾張部(おわりべ)散在・高岡郷・小井(こい)郷・吉田村知行分   与一

  東条荘内中駒沢                           昌頼

  高田郷内知行分                           昌頼

  東条荘内中駒沢内墨沼四郎跡                     虎王丸

  広瀬荘内北山村                           基高

  保科御厨(みくりや)内善哉(ぜんざい)郷知行分           江部山城守

  北中島郷知行分                         高梨入道彦五郎

  中条比藤知行分                         柳沢高朝

 筆頭にあげられたのが和田郷(古牧西和田・東和田)ならびに高岡であり、亡父家高が延文二年(正平十二年、一三五七)に拝領したところであるという由緒もあわせて記載している。鎌倉末期、和田・高岡は和田氏一門の所領であったから、南北朝内乱で恩賞として高梨家高が獲得したのである。隣接する東条荘内石渡部郷(朝陽石渡)・堀郷(朝陽南堀・北堀)・尾張部散在郷(朝陽北尾張部・古牧西尾張部)・小井(こい)郷(吉田中越・太田)・吉田村知行分(吉田)は高梨与一の所領になっていた。

 小井郷は得宗被官の曾我・諏訪木工(もく)左衛門尉(じょう)入道らの所領が分布していた。得宗被官らが没落してそれらの土地がそっくり高梨氏の所領となったのである。室町時代にはこの郷名はみられなくなり、かわって桐原・宇岐(うき)・小鹿野(おしかの)・吉田・長島の郷名が出現する。『諏訪御符礼(みふれい)之古書』によると、応仁二年(一四六八)に桐原・宇岐・小鹿野・吉田・長島の五ヵ村は「打替々々頭本」を勤仕したという。その御符のあて先は「宇岐村トモ古井(こい)トモ云(いう)」とある。文明八年(一四七六)にも小鹿野村の場合には「御符ニハ古井郷卜書」とある。桐原・宇岐・小鹿野・吉田・長島という五つの村は鎌倉時代に存在した越(こい)郷の名前でよばれ、もっぱら「古井」と書かれたのである。

 これら五ヵ村は浅川扇状地に立地する集落で、宙水(ちゅうみず)の湧水が宇木や桐原・吉田などにみられるものの乏水地帯である。浅川から取水する三郎堰や東沢堰と、一部では裾花川から取水した鍾鋳(かない)川堰の用水を利用している(第二章図2)。越郷の一帯が室町時代の開発によって生産力を増し、五つの村に分立するようになった地域である。この一帯に古くから鐘鋳川が流れているので、「古井」の地名でよばれたのであろう。室町時代には六ヶ郷用水を「今井」とよび、鐘鋳川を「古井」とよんだ地名化と考えられる。小鹿野(吉田押鐘)・吉田にも居館跡がある(図4)。


図4 小鹿野居館跡
村の侍名字をもった土豪も居館を構えていた。(浅野井垣作図)


図5 善敬寺周辺の地割
中世の一向宗寺院も居館跡にあることがわかる。

 高梨氏の所領である和田・高岡・尾張部・堀・石渡は、三条待居(まちい)堰によって灌漑される地域とまったく一致している。この堰は六ヶ郷用水ともいわれ、西和田が堰守(せぎもり)で、東和田・西尾張部・石渡・南堀・北堀の六ヵ村の用水組合である。

 北八幡川と中沢川が合流する市内三重公園の滞水池で取水する(写真23)。八幡社の守田廼(もりたの)神社がかつての居館跡で用水の堰神であったことはすでにみた。東和田地籍で東田堰を分流する分水口にも八幡社があり、八幡神の用水路としての性格をもつ。南堀地区で生井大神(うぶいおおかみ)をまつっている槻井泉(つきいずみ)神社の前で六ヶ郷用水と鐘鋳川が出会い平行して流れ、屈曲して北堀地区に向かい小島用水に合流している。管理権は取水口の西和田地区がもち、その地蔵堂に安置する地蔵座像は行基作の雨乞(あまごい)地蔵・鼻取地蔵との伝承をもつ。寛文年間(一六六一~七三)に井原茂兵衛の代かきを地蔵がおこなったとする伝承がある(地蔵堂奉納額)。流末の石渡地籍にも地蔵寺があり、その東側が遊水地となり鐘鋳川を横断している。八幡神と地蔵菩薩が六ヶ郷用水を守るものであった。更埴市屋代の屋代用水にも同様の説話が残り、法華寺の「鼻取地蔵縁起」が天正三年(一五七七)五月朔日(ついたち)のものとして伝えられる(法華寺所蔵文書)。古い用水路が神・仏の縁起や伝承と一体になっている。


写真23 六ヶ郷用水

 六ヶ郷用水路は、条里地割の水田地帯をゆったりと蛇行しながら流れており、条里地割にまったく規制されていない(図6)。条里地割の規制がなくなり、用水不足を改善するためにあらたに設けられた中世後期の用水路であることが想定される。

 この用水路に沿って数多くの居館跡が分布する。西和田・東和田地区の居館跡については前述した(第二章第一節一)。その東和田居館跡付近が尾張部地籍への分水口(ぶんすいこう)となっている(三ヵ村用水分水口)。東和田居館跡は方形一〇〇メートル規模の内部に五〇メートル前後の内郭があり、室町時代に改修された可能性が高い。和田氏の居館と所領を引きついだ高梨朝高が改修して自分の居館に再利用したものと考えられる。さらに用水路が石渡に入ると石渡居館跡(高山宅)がある。応永六年(一三九九)に守護使赤沢秀国・櫛置清忠らが陣をおいた石渡御陣跡である。ここでもこの居館跡の分水口と石渡浄土とよばれる分水口があり、江戸時代から昭和まで渇水時はこれらの分水口に不寝番(ふしんばん)が立つ慣行になっていた(『北堀誌』)。

 この石渡居館跡に隣接した常岩寺付近は字今井という。『諏訪御符礼之古書』によれば、石渡・堀一帯には石渡戸(いしわと)と今井という郷がありそれぞれ地侍がいた。文安五年(一四四八)には今井範貞・石渡戸末範、応仁元年(一四六七)には今井末範・石渡戸満範、文明四年(一四七二)には今井広範・石渡戸定範が知行しており、石渡戸・今井両氏ともに「範」を通字にした親類一族であったらしい。この今井郷こそ六ヶ郷用水(三条待居堰)の流末にあたるから、用水路の名前をとったものであろう。南堀には穂里(堀)城があり、その堀跡が昭和四十年代まで残っていてスケートをした記憶のある住民もいる。

 六ヶ郷用水は、流路に沿って和田居館跡・高岡居館跡・石渡居館跡・堀居館跡が分布し、その居館跡付近がいずれも分水口になっており、近世から昭和までの不寝番の立つ場でもあった(図6)。この事実こそ、それらの居館にいた領主が用水を管理していたことを物語っている。ではその領主とはだれか。この点で注目されることは六ヶ郷用水の灌漑地帯が室町時代の和田郷、高岡、西尾張部、堀、石渡の地域とまったく一致し、明徳三年(一三九二)当時六ヶ郷用水の灌漑地帯がすべて高梨氏の知行地であった事実である。平成九年(一九九七)七月の墓石調査では、字今井の常岩寺で「康応元年十月十五日諸人敬白」の銘文がある宝篋印塔基礎石が見つかった(写真24)。康応元年(一三八九)は、高梨朝高が所領目録を室町幕府に提出するわずか三年前である。明らかにこの一帯に高梨氏の知行が展開されていた時期に、この常岩寺の中世石塔が建立されたのである。六ヶ郷用水の開発・維持・管理に高梨氏の権力が大きく影響していたものとみて間違いない。もちろんそれは高梨氏による独力の開削ではなく、平姓和田氏による開発努力の跡を継承発展させたものである。鎌倉時代の和田氏による用水開発の歴史を引き継ぎ、六ヶ郷用水というまとまった体系に仕立て上げたのは高梨氏の功績といえよう。

 中野市には夜間瀬川の治水事業と高梨氏との結びつきを語る黒姫伝説が残っている。高梨氏が善光寺平の平野部に進出し和田郷から堀郷までを知行した背景には、こうした高梨氏による六ヶ郷用水をめぐる勧農・開発事業があったことを忘れてはならない。


図6 東条荘の六ヶ郷用水と居館跡


写真24 宝篋印塔に再利用された常岩寺塔基礎石
康応元年(1389)の年号がみえる。