一五世紀半ばまでは、善光寺平の郷村は高梨氏に代表されるような地頭御家人に系譜をもつ有力国人層によって比較的安定した知行がおこなわれていた。しかし、善光寺平でも応仁・文明年間の一四六〇年代になると、新興の国人らを加えて内部紛争が激しくなってきた。
高梨氏も一五世紀前半までは幕府料国のもとで将軍の支配下に服していた。文安五年(一四四八)から延徳元年(一四八九)にかけて高梨政高・政盛らが和田郷を知行し、代官に吉田入道那阿・美濃守秀義・孫三郎盛能らを任命していた。吉田郷出身の吉田氏が高梨氏の被官になって、和田郷の代官をつとめていたのである。
その高梨政高が寛正(かんしょう)四年(一四六三)越後の上杉右馬頭(うまのかみ)を殺害した。これがのちに北信濃全体を揺るがす大きな事件になるとは思いもしなかったであろう。この事件は、越後の守護上杉氏一門の右馬頭が高梨領の高井郡高橋(中野市)に攻めこみ、逆に高梨氏がこれを打ちとったというものであった。この時期、越後の上杉氏と信濃高梨氏が、国境地帯や越後高梨領をめぐって対立・紛争を繰りかえしていた。関東公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)はこれを喜んだが、関東管領の上杉房顕(ふさあき)は一族が殺害されたため、これを幕府に訴えでて高梨氏を追討しようとした。高梨政高も幕府官僚や細川氏に必死に働きかけをおこない対応におわれることになった。寛正六年にも、政高は幕府の奉行人伊勢貞親に馬を贈り前管領細川勝元への訴訟の執りなしをもとめた。
しかし、この働きかけは失敗し、幕府は信濃守護の小笠原光康と上杉房定に、村上兵部少輔と高梨政高を退治するよう命じる治罰(じばつ)の将軍御教書(みぎょうしょ)を寛正六年六月九日付で発給した(写真25)。翌文正(ぶんしょう)元年(一四六六)将軍義政は京都海蔵院に太田荘領家職を安堵する御教書を発し、翌二年には若槻荘や小菅(こすげ)荘(飯山市)を京都若王子(じゃくおうじ)社に安堵した。将軍義政がこの時期になって北信濃での有力国人村上・高梨両氏を追討する命令を出すと同時に、荘園領主の利益を保障する御教書を連続して再発給しつづけたのである。
高梨・村上両氏にたいする将軍の発した治罰御教書は、さっそく現地でその効力をあらわしはじめた。更級郡の香坂・小田切氏ら国人が善光寺平の高梨領に武力侵入したのである。高梨氏の中心的郷村であった和田郷が、文正元年に突然更級郡牧島(信州新町)の香坂氏の知行となり、小田切下総守(しもうさのかみ)貞遠が代官となった。翌二年には更級郡大岡伯耆守(ほうきのかみ)滋野盛泰が和田郷を一時知行した。和田郷から高梨氏が排除されたのである。この戦闘はかなりの広がりをみせた。文正元年に小田切安芸守(あきのかみ)高遠が窪寺(安茂里)にも侵入して知行を実現し、宮尾遠重を代官にしている。かれは翌二年には富武(とみたけ)郷(古里富竹)にも侵入し知行地にしている。
将軍義政の追討令の対象となった村上氏も、この年井上氏と合戦となり、逆に井上安芸守満貞が弓矢によって死去している。村上氏は文正二年には海野氏とも戦闘している。
高梨・村上両氏は文正元年から二年にかけて、周辺の香坂・小田切・井上・海野などの中小国人から軍事攻撃をうけ、窮地に追いこまれていたのである。将軍義政の治罰御教書は、善光寺平周辺の中小国人層を動員して高梨領や村上領に侵入させるだけの効力を発揮したのである。これを「信濃文正の変」とよぶ。この戦闘は善光寺平を戦乱の場と変え、紛争が長期化してこの地でも応仁・文明の内乱状態となった。文明元年(一四六九)になっても高梨政高は高井郡狩田(小布施町)で井上方に攻めこまれ、このため狩田郷は不作となっている。
小田切氏の活躍は小市(安茂里)の渡しでもみられた。寛正元年から文明三年まで小市郷を知行していた徳長道頓は、文明九年に小田切安芸守清遠に取ってかわられた。ちょうど翌年から徳長氏は窪寺郷(同)で小田切氏の知行代官として再登場しているから、その被官になったのであろう。小田切安芸守清遠は文明十年から十八年にかけて窪寺郷を知行しつづけ、代官に徳長遠縄(とおつな)を任命している。小田切安芸守一族が実力で窪寺・小市を知行しつづけたのである。この小田切高遠・清遠は、安芸守の受領(ずりょう)名も同じで遠を通字としているから、一族か父子である。犀川の北側の小田切地区を根拠地としていた武将で、かつて大文字一揆の構成員であった。
しかし、高梨・村上両氏の窮地も徐々に克服される。文明六年(一四七四)には高梨政高が和田郷の知行を回復した。小島郷(柳原)も高梨配下の若槻氏や西条忠頼が知行を一時実現した。若槻氏は室町時代に高梨氏の一門になっていた。文明十年になると、高梨政高の子息政盛は、幕府の政所代(まんどころだい)で伊勢直宗の被官であった蜷川親元(にながわちかもと)に銭一〇〇〇疋(びき)(一疋は一〇文なので一〇貫文)を贈与した。高梨氏も政高から政盛へと代替わりし幕府との関係を復活させ、しだいに勢力を高井郡から越後国境地帯に拡大していく。文明十七年高梨氏の代官吉田秀義は諏訪頭役(とうやく)の納入を難渋し、「吉田殿、神領神役を横儀致し神銭を我が物にせられ候」と非難されている。高梨氏の知行下で和田郷の代官であった吉田氏が実力を伸ばし、その神役の納入を怠り自分の収益として確保するようになったのである。高梨氏の統制下にあっても地元の侍衆吉田氏がしだいに下から勢力を拡張させつつあった。