善光寺平での応仁・文明の乱

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応仁元年(一四六七)には漆田(うるしだ)郷(中御所)でも漆田秀豊が一揆に攻められ、一時的とはいえ隣の栗田郷(芹田)の栗田氏に城を明け渡している。漆田秀豊の知行地は、裾花川から取水する宮川・計渇(けかち)川の用水掛かりであり、栗田氏の知行地は古川に依存している。ともに裾花川から取水し分水口は隣接しあっている。知行地の水争いや境争論での戦闘が激化していた。この栗田氏の居館跡は、日吉神社をまつった土塁とともに現在も残っている。内郭は二二〇メートル方形の大きなもので、平成七年(一九九五)の発掘調査でその一部から中国の陶磁器や瀬戸・美濃・珠洲(すず)などの陶器、宋(そう)銭や明(みん)銭などが出土し、一三世紀から一五世紀前半までのものとされている(写真26)。これにより室町時代の居館跡であったことが確認された。


写真26 古瀬戸天目茶碗
栗田城跡の溝の埋土から出土した。
長野市埋蔵文化財センター提供

 応仁二年になると、井上方と須田氏とが戦闘になり井上方が討ち負け、多数討ち死にした。文明十一年(一四七九)には井上領内で兄弟弓箭(きゅうせん)という戦闘が記録され、井上一族内部の戦闘が激化していた。風間郷(大豆島)の風間安芸守光直は、寛正二年(一四六一)から応仁二年まで代官原大和守近光を通じて風間郷を知行し、文正元年(一四六六)からは平林郷(古牧)をも支配していた。しかし、文明四年には平林郷を今井六郎広範に奪われ、翌五年には風間氏が頓死(とんし)し家中も死去するという事件がおきた。この結果、風間氏が衰退して、文明七年から十四年にかけて風間郷と平林郷は原大和入道有源が知行した。鎌倉時代の御家人原氏の子孫が復興しはじめた。しかし、安定はしない。文明十二年には風間郷を一時村上与四郎高国に奪われた。平林の居館跡はJR長野工場の拡張工事で破壊されたが、いまもその一部が微高地としてその痕跡をとどめている。隣接する宝樹院は、現在でもその檀家(だんか)が風間や大豆島(まめじま)に多く分布しており、室町時代と現在との連続性が確かめられる。

 犀川の渡し場で交通の要衝である市村郷(芹田南市・北市)でも、知行人の交替がひんぱんにみられた。市村郷は享徳三年(一四五四)には大文字一揆の春日伊予守盛貞が知行していたが、長禄三年(一四五九)には市村定光の知行に変わり、文明三年(一四七一)には西条大和守経春がはじめて知行するなど、めまぐるしく変化している。この年も栗田萱俊や村上吉益勘解由(よしますかげゆ)清忠や同名伯耆守(ほうきのかみ)信経らがこの郷の諏訪社頭役に関与していた。この吉益氏は越後の在庁官人という説もあるが、出身が不明で村上姓を称していることが注目される。文明九年から十八年には吉益与三郎清長(大炊助(おおいのすけ))・与一清経(伯耆守)が市村郷を知行し、竹内藤左衛門が代官となっている。

 この吉益氏は連歌師宗長(れんがしそうちょう)と関係が深い。永正十二年(一五一五)連歌師の宗長は坂木(坂城町)の青蓮寺という道場で連歌会をおこなったあと、「千曲川のほとり吉益紀伊守所」でも連歌の歌会を営んだ。「川なみやきしかへる春のみね雪」「青柳に山かさなれるあさ戸かな」の歌を詠んだ(「那智籠(なちごもり)」)。犀川と千曲川とが混同されて記録に残されていることはたびたびであるから、この吉益紀伊守の屋敷は市村郷にあったものと考えられる。吉益氏の居館跡ははっきりしないが、若里北市篠原幸夫宅の字名が古城といい、市村左馬助(さまのすけ)墓と伝承する五輪塔がある。北市の松橋周一宅も居館跡と推定され、土塁跡・池跡が一部残存し竹林や樹木が茂つている。


写真27 諏訪御符礼之古書
善光寺平の応仁・文明の乱を伝えてくれる。

 井上氏は、井上(須坂市井上)・亘里(わたり)(若穂綿内付近)・小柳(おやなぎ)(同)・長池(朝陽北長池・古牧南長池)など、水内・高井の郡境の地域と渡し場を支配して勢力を伸ばした。永享十年(一四三八)には栗田殿の名代として井上孫次郎が結城(ゆうき)合戦に参加していたし、戸隠顕光寺の別当にも進出していた。井上郷を本拠とした井上伊予守(いよのかみ)政家は、文安三年(一四四六)から文明六年まで約三〇年間この郷を知行し、代官に唐沢国継らを任命していた。

 この井上氏一門は、高井郡亘里や小柳、水内郡の長池・南高田(古牧)にも知行を拡大している。享徳元年(一四五二)から文明十二年(一四八〇)まで井上政満は、亘里を知行し、代官に吉田能登守高秀や馬場信家、助次郎らの被官を配置していたし、長禄三年(一四五九)から文明十一年まで小柳郷を知行し、代官に稲田道椿や筑前守満重などを任命し稲田氏を被官としていた。長池郷でも、寛正三年(一四六二)から文明六年(一四七四)にかけて井上讃岐守(さぬきのかみ)為信が知行していた。かれは富長為信とも名乗っており、その子息も富長政長を称している。信を通字にした一門で十王坊秀慶を代官としており、戸隠神社と関係の深い井上一門が、僧侶・山伏を代官として知行地の経営にあたっていたらしい。

 南高田では、長禄二年から延徳元年(一四八九)まで井上左馬助政満や左馬助康満が知行し、岩崎左馬助泰満とも称しており、井上一門のなかで岩崎を自称する人物がいたことがわかる。井上氏の代官には中沢家重・国吉らがいた。現在南高田に中沢館跡と伝承する館跡が残っている(図7)。一部道路で破壊されたが、南八幡川の用水を利用しており、その東側が五輪堰(こどぶ堰)の分水口である。この南八幡川・こどぶ堰の流末に長池が立地している。高井郡を出身とした井上氏が、文正の変以後に将軍義政との関係を利用して、川西の水内郡内の郷村に進出し、一門が富永・岩崎と称したり、中沢・吉田・稲田・馬場氏を被官にして勢力を拡張させた。井上氏が周辺の郷や村名字を名乗る侍衆を被官に組織しつつ地域の領域支配を固めつつあったことがわかる。これら被官衆の名字は現在でも市内に多数残っている。室町時代の村と現代社会との連続性が強いことの証左でもある。井上一六か郷といわれる村々から諏訪頭役銭を一律に徴収して諏訪社に納入していた。井上氏は一五世紀後半、国人として善光寺平の村々に進出し全盛期であった。


図7 中沢氏館跡と用水堰

 島津氏は、長沼・赤沼(長沼)を本拠に勢力を拡大した。赤沼では文安三年(一四四六)から文明十八年(一四八六)まで島津忠国(徳阿)・朝国と二代にわたり常陸介(ひたちのすけ)を受領(ずりょう)名として知行し、野田長興・国長を代官としていた。長沼では享徳三年(一四五四)から文明十九年までの約四〇年間、島津道忠・薩摩(さつま)入道常忠・兵庫助信忠・薩摩守清忠の四代が代々知行しつづけた。いずれも忠を通字にしており、代官に稲舂(いなつき)次郎左衛門や伊利氏、鷹野朝光らを登用していた。この島津氏は鎌倉時代には惟宗(これむね)姓を称しており、室町時代になっても文明三年には惟宗忠国が桐原(吉田桐原)を知行し、文明十四年には惟宗貞高が小鹿野(吉田押鐘)を一時知行した。このように惟宗を姓とする島津氏の一門も善光寺のひざもとの郷村に進出したが、その知行は長くつづかなかった。

 高井郡の国人須田氏も勢力を伸長させており、長禄二年(一四五八)から文明十六年にかけて須田刑部少輔為国・同信濃守満信らが古(布)野を知行し、代官に中島佐渡守長能や小二郎信重らを任命していた。

 このほかに、真島郷(更北真島町)は犀川の渡し場の郷村であったが、享徳三年(一四五四)から長享二年(一四八八)にいたる三〇年間、馬島慈昌・同讃岐守昌枝・宮内少輔昌秀・周防守(すおうのかみ)昌持が代官もなしに直接安定した知行をつづけた。郷名を名乗る地元の侍衆馬島氏の登場である。真島町には字堀の内の地名がある。善光寺領であった河井郷(真島町川合・芹田川合新田)でも、文明元年から十四年に河井下総守胤景(たねかげ)・領景が知行していた。保科・河田(若穂)でも、康正二年(一四五六)から文明十三年にかけて桑井(くわのい)長光・長経・信光らが知行していた。この長光は保科左馬助長光とも名乗り、長経も保科長経を称している。松代町豊栄(とよさか)の桑井(桑根井)を姓とする桑井氏は、鎌倉御家人平林氏の系譜をもつ一族であるが、室町時代には郷名の保科を侍名字に使用するようになっていたのである。