室町・戦国時代の史料にみえる郷や村で、江戸時代には消滅してしまったものが数多くみられる。善光寺平では中島・長島・今井・徳長・富長・中条・宮・亘理・小柳・稲舂など一〇ヵ郷ほどにのぼる。これら消滅してしまった郷村は、いずれも浅川扇状地の扇端部分や千曲川の氾濫原(はんらんげん)などの洪水地帯に立地していたらしい(図8)。
これらのうち小柳の郷には、室町時代に梨本(なしもと)丹後守満国とか稲田道椿・稲田義重らの代官がいた。梨本の名字は現在でも市内にあるが、在所は不明である。新潟県柏崎市の妙聞寺はかつて信濃国高井郡小柳郷島村にあったと記録している(『新潟県の地名』)。戦国時代に綿内郷内に小柳の地があったことがわかり(『信史』⑰)、慶長十六年(一六一一)の綿内村知行割に「島村」がみえる。小柳は綿内の島村付近にあった郷で、千曲川の中州地帯にあったことが想像され、洪水や災害で消滅したものと考えられる。
中島・長島郷も廃村した。前者は室町時代古野郷の代官として中島長吉、中島信重らの名前がみられるから、桐原古野付近か柳原布野付近かどちらかであろう。現在の須坂市中島は千曲川の川西から移住してきたという伝承をもっている。慶長三年(一五九八)には「高井郡井上村ノ内中島村」とあり、寛保二年(一七四二)の千曲川洪水では村の大半が流失した。中世の中島郷は水内郡内にあったから、室町時代から近世までのあいだに、扇状地の堆積や千曲川の洪水などで自然条件が大きく変化して移動した郷村であったことを物語っていよう。長島郷もこの中島と連続していた一帯にあったもので、浅川流域で千曲川との合流地帯にあって消滅した中世の村であったらしい。
徳長は明徳三年(元中九年、一三九二)の高梨氏所領目録に「東条荘内得長郷」とみえ、室町時代に小市郷の代官徳長道頓(どうとん)の出身地の名字としてみえる。天正年間(一五七三~九二)には、河中島内鴛間田(おしまだ)分として綱島・千田・駒沢・徳長・堀などと連続して位置するから、駒沢(古里)と北堀(朝陽)付近と考えられる。上駒沢と西富竹(古里)のあいだに地字として字「徳永」がある(『朝陽村誌』)。浅川が千曲川に合流した後背湿地・氾濫原一帯付近と考えられる。市内には現在徳永の名字も散見される。
富長は長池郷の代官富長為長・政信らの名字としてみえる。この富長氏は井上名字をも名乗っているから、市内長池付近であろう。八幡川が千曲川の自然堤防にぶつかって常時氾濫・洪水する湿地帯にあって廃村したらしい。
亘理も井上氏が知行している。富長や亘里は、井上氏の知行する水内郡長池と高井郡井上とを結ぶ千曲川の渡し場地点にあった郷村であろう。現在は扇状地の堆積によって千曲川が東側に押しやられているから高井郡と考えられているが、中世においては水内郡側にも展開した郷村と考えられる。
中条郷には室町時代寺尾氏らが代官としてみえるから、寺尾(松代町東寺尾・西寺尾)を中心とした千曲川氾濫原の自然堤防上の集落であったらしい。
稲舂の郷も不明であるが、この郷名を名乗る一族は長沼島津氏の代官となっている。天正七年(一五七九)には若槻荘内稲積(いなづみ)之郷などとしてみえる。慶長八年に北国往還ができてから稲積宿ができて村が移動したらしい。おそらく稲田から富武・雁箱・長島などとともに、浅川の氾濫や乱流、さらに千曲川の氾濫が重複する洪水地帯であったため、その位置を変化させた郷村らしい。
これらの中世に消滅した郷村は、千曲川の自然堤防の背後にできた巨大な低湿地や、浅川扇状地の末端で浅川が千曲川の氾濫原や後背湿地と合流する地帯に多い。いずれも大洪水や氾濫の常襲地帯に分布している。これらの湿地帯では、悪水払いの用水路が開削されるまでは自然の氾濫のままに任せる以外に開発の方法はなかった。中世社会では氾濫、土砂の堆積など自然災害に翻弄(ほんろう)され、消滅していかざるをえなかった郷村が数多く分布していたのである。中世には洪水をはじめ自然災害から郷や村を守る闘いもきびしく、廃村に追いこまれる村々も多かったのであった。