連歌師宗祇・宗長と善光寺平

782 ~ 786

応永七年(一四〇〇)守護小笠原長秀が善光寺に入部したとき、頓阿(とんあ)と力阿弥(りきあみ)という二人の遁世(とんせい)者をともなっていた。頓阿は「面貌(めんぼう)醜(いやし)くしてその躰(からだ)太(はなは)だ賤(いや)し、然りと雖(いえど)も洛中(らくちゅう)に於いては名だたる仁(ひと)なり、連歌(れんが)は侍従周阿弥(しゅうあみ)の古様を学び、早歌(そうか)は諏訪顕阿(けんあ)・今田弾正(だんじょう)の両流を伺ふ、物語は古山の珠阿弥(しゅあみ)の弟子、弁舌宏才は師匠をもどく程の上手なり」とある(『信史』⑦)。京都でも知られた一流の芸能・文芸の名人が守護にしたがって善光寺に入部した。地元との交流が進展したにちがいない。『菟玖波(つくば)集』の編さん後、南北朝期には純正連歌と地下(じげ)連歌(勝負連歌)に分離して連歌自体衰微したといわれるが、そのなかでは周阿が天下に聞こえた連歌師であった。室町・戦国時代には、連歌師宗祇(そうぎ)・宗長をはじめ、心敬、里村紹巴(しょうは)・昌叱(しょうしつ)が出て地方でも大流行した。

 善光寺平では姨捨(おばすて)や更級など歌枕(うたまくら)の景勝地が知られ、多くの連歌師が訪れた。連歌師宗祇も文明十年(一四七八)に更級郡八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)(更埴市)を訪れ姨捨の月見に参じている。

 姨捨の月見にまかり侍(はべり)しに、此(この)所の八幡宮神主許(もと)にて侍りし会に

あひにあひむ姨捨山に秋の月

 おなじき社官に小林といふものあり、かの所にて

雲きりをわけしも月の山路かな

 右の発句(ほっく)ことによろしからす侍れとも、かのあるしをたよりにて此山の月見侍しかは、なさけわすれかたくて書きとめ侍るはかり也、(『初編老葉』)

 更級郡八幡宮は小谷(おうな)八幡ともよばれ、石清水(いわしみず)八幡宮領小谷荘の荘園鎮守(ちんじゅ)でもあった。歌枕でも著名な名所である姨捨の月見のために、八幡宮神主亭で連歌会(え)が催された。神主はもとより地元で連歌に通じたものが集まり、連衆(れんじゅ)として宗祇とともに連歌を巻いたのである。当時は八幡宮の社家に小林家があった。よほど冠着(かむりき)山での月見が忘れがたい印象を残したらしい。八幡宮宮司家には現在も、文明十六年の蜷川(にながわ)貞相詠五十五首和歌や戦国時代の連歌が伝来している(写真28)。


写真28 蜷川貞相詠五十五首和歌
更埴市八幡宮宮司宅に伝来した和歌。 (更埴市 松田家文書)

 永正十二年(一五一五)正月駿河(するが)国宇津山(うずやま)に居住した連歌師宗長は、信濃国筑摩郡浅間(松本市)辺(べり)の人、赤沢氏の誘いによって信州に向け連歌の旅に出発した。甲斐(かい)国をへて諏訪神社に参詣。諏訪大祝(おおほうり)邸での連歌会が催され、「あづさ弓春や御射山(みさやま)さくらがり」と詠んだ。そこから浅間の赤沢邸に立ち寄り保福寺(ほうふくじ)峠から室賀(むろが)峠をへたのであろう。坂城(坂城町)の青蓮寺という時衆(じしゅう)の道場での連歌会に出た。そこから善光寺平に向かい「ちくま川のほとり吉益(よします)紀伊守」のところで連歌会に参加した。これが前述した市村郷(芹田北市・南市)の吉益氏屋敷である。この一帯は村上氏の勢力範囲であり吉益氏も村上一門であったから、宗長は有力国人村上氏を頼りにしていたのである。

 かれはさらに高井郡中野郷(中野市)の高梨摂津守邸を訪れた。千句の連歌会が開かれ、蔵王権現(ざおうごんげん)鎮守の神宮寺をへて旅人をとめる宿坊で「たち花や我がしのぶ草たびの宿」と詠んだ。小菅(こすげ)社(飯山市)と推測される。その後、善光寺平にもどり「犀川のほとり赤沢の宿所」で、「夏の夜のあさ川はやし瀬々のこえ」の句を残した。更級郡四宮荘(篠ノ井塩崎)の守護代赤沢氏の屋敷に宿泊し、連歌会が開かれたのである。長谷寺の奥にある塩崎城や稲荷山に寄った塩崎新城はいずれも山城で、日常生活を送った屋敷跡は不明である。中郷神社門前の発掘調査で出土したクネ下館跡もひとつの候補となろう。宗長がそこから更級郡更級郷に出たときは五月になっていた。赤沢邸にゆっくり逗留(とうりゅう)したらしい。

 一本松峠から筑摩郡桐原牧(松本市入山辺)に出て下諏訪の人の所望で句を贈った。浅間郷の赤沢氏の屋敷でのことであろう。そこをたち木曽路に出た。小木曽(おぎそ)荘三留野(みどの)宿(木曽郡南木曽町)から美濃国二ツ岩に入り、有力国人斎藤伊豆守亭や春揚(しゅんよう)坊をへて関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)から七月一日には近江国伊吹山のふもとに出た。東蔵坊から越前国一乗谷(いちじょうだに)(福井市)の深嶽寺(しんがくじ)疎壁軒(そへきけん)に入り、朝倉太郎左衛門尉教景(じょうのりかげ)邸や山荘の昨雨軒、山崎長門寺などでの連歌会に参加した。教景(一四七四~一五五五)は朝倉氏を戦国大名に飛躍させた孝景(たかかげ)の子で越前一国を統一した人物である。教景千句はこのときのことである。宗長は一乗谷から北国街道を北上して武生(たけふ)(福井県武生市)の国府に出た。青木中務(なかつかさ)や印牧(かねまき)弥六左衛門のところでの連歌会に出て、越前敦賀(つるが)(同敦賀市)の一宮気比(いちのみやけひ)神社から若狭国小浜(おばま)(同小浜市)の武田氏の館をへて京都にもどっている。京都ではやはり赤沢加賀守邸に宿をとっている(『那智籠』)。

 こうしてみると、連歌師宗長の旅は信濃の村上・高梨・吉益・赤沢、美濃の斎藤、越前の朝倉、青木、印牧、若狭の武田など諸国の有力国人をめぐり、信濃の諏訪神社、越前の武生、気比神社など諸国の府中や国一宮など有力寺社をめぐる旅でもあった。地方の有力者から寄付を募る勧進(かんじん)の旅でもあったことがよくわかる。かつて鎌倉時代になされた西行の和歌の旅は、陸奥(むつ)平泉(岩手県一関市)の藤原氏から東大寺造営への勧進を募る旅であった。宗長もこの時期親交の深かった一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の京都大徳寺山門造営に協力していたといわれ、その勧進でもあった可能性が高い。永正十二年(一五一五)に始まる連歌師宗長の旅は、その契機が信濃国浅間郷の赤沢氏の誘いに始まり、善光寺平での「赤沢の宿所」、京都での「赤沢加賀亭」というように赤沢氏が大きな役割を果たしていたことがわかる。