室町時代には、善光寺信仰は戸隠信仰や飯縄(いいずな)信仰と一体となって流布するようになっていた。それに能野信仰や伊勢信仰が結合して、その交流も全国的で活発に展開された。貞治(じょうじ)四年(一三六五)四月十四日、善光寺西門に居住する正一坊という僧侶(そうりょ)は、戸隠山中院の義養坊阿闍梨(あじゃり)という山伏と共同で熊野本宮(和歌山県東牟婁(むろ)郡本宮町)に参詣した。善光寺・戸隠と熊野が相互に交流しあい、信者への御札配付などの活動を展開していた。
応永七年(一四〇〇)ごろ、善光寺の門前は「稚児(ちご)、若僧、中童子、戸隠山の若山伏たたずみ行く風情あり」ともいわれるほどにぎわった。善光寺は捨て子が多かったこともあり、寺の子として世間の喜捨や施行(せぎょう)をあてにしたり、参詣人の案内などで自活するものも多かった。地方武士や土豪の子弟が善光寺や戸隠の稚児、若僧、中童子、若山伏などになって修行や勉学に励んだから、活気に満ちた場でもあった。
室町時代の善光寺や戸隠などのようすを旅人の紀行文から探ってみよう。堯恵法印(ぎょうえほういん)は、寛正(かんしょう)六年(一四六五)七月四日に加賀国金剣(かなつるぎ)宮から念願の善光寺参詣に出発した。五日には越中国利波(となみ)山(富山県砺波(となみ)市)から二上(ふたかみ)川をすぎた。二上山が越中一宮気多(けた)神社に隣接する地にあるから、現在新湊(しんみなと)(同新湊市)にそそぐ小矢部(おやべ)川を二上川といったのであろう。大伴家持(やかもち)の和歌で知られた田子の浦から水橋という渡しをこえ立山を仰ぎながら越後に入る。浄土という地から親知らずをへて歌の浜から糸魚川(新潟県糸魚川市)で停泊する。明けて八日朱(あけ)山に登り、肅(しゅく)寺から花笠の里を通って国境の関山(新潟県中頸城郡妙高村)に出る。かつて延暦寺西塔で共同で修行した旧知の快芸(かいけい)法師と再会した。明けて十四日信濃国に入り、酉(とり)の時刻(午後六時ころ)に善光寺本堂に参詣した。加賀から北陸道を通って片道一〇日の旅であった。
善光寺では予想外にも「引導する人」があってその案内で内陣で通夜し、本尊の瑠璃壇(るりだん)をめぐった。中世の参詣人は本堂で宿泊するのが一般的であった。「まことに多劫(たこう)の宿縁浅からずおぼえて歓喜の涙せきあえず」と感激のさまを記している。鎌倉時代、善光寺に参詣した一遍は参詣日が舎利会(しゃりえ)で善光寺仏が開帳されていたことに奇縁を感じていたが、室町時代には参詣人が内陣で通夜すること、瑠璃壇めぐりをすることが善光寺如来と結縁(けちえん)する参詣の作法になっていたことがわかる。この「瑠璃壇めぐり」が現在本堂でおこなわれている戒壇(かいだん)めぐりをさすのかどうかは不明である。ただ、かれは「暁に及ぶまでに月いと清らかに侍(はべ)り」とあるから一晩中寝なかった。室町時代の「瑠璃壇めぐり」は徹夜でおこなったらしい。
堯恵は七月十五日、宿坊をたって戸隠山に参詣した。二重の瑞籬(みずがき)を拝してから奥院に登った。宝光院と中院を参拝して奥院に向かったのである(写真30)。
「塁(るい)々たる山の上にすぐれて中台に南北ふたつの嶺(みね)あり、をのをの重々に岩をかさねあげて八色をまじえたり」と奥院のようすを記している。現在の奥社の位置ではなく、そこから戸隠連峰への登山口を登り「百聞長屋」をすぎ山頂部の「八方睨(にらみ)」に向かう中腹に多くの霊窟(れいくつ)がある。ここが室町時代の奥院であった。「社頭は北の峰の半(なかば)にさしあがりて東に向ひ大なる岩屋の内へ作り入たり、彼(かの)御神は多力雄(たじからお)にてまします」とある。岩屋の窟を利用して庇(ひさし)屋根を前に張りだすように葺(ふ)いた構造の建築物が東向きに立てられ、そこに多力雄神が祭られていたのである。
昭和三十八年(一九六三)から四十年にかけておこなわれた戸隠総合学術調査の発掘調査では、この霊窟群のうち西窟(さいくつ)から平安時代の花瓶(けびょう)と六器、鎌倉時代の懸仏(かけぼとけ)、南北朝時代の観音菩薩像が出土し、東窟でも中世の土師(はじ)質土器と灰釉(かいゆう)陶器が出土した。考古学的にもこの霊窟群が平安時代から中世にかけての奥院であったことが確認されたのである(戸隠神社『戸隠信仰の歴史』)。しかも、室町時代には戸隠神社奥院は「多力雄神」と信仰されていたことが判明する。それまでは山岳修験(しゅげん)の道場で、顕光寺という密教寺院であった。室町時代に伊勢神道の影響がおよび、現代につながる「多力雄神」を祭る神社として北陸道方面には知られるようになっていたのである。
堯恵法印はその日のうちに戸隠神社をたって、山嶺(やまみね)の道で関山に出て十六日は快芸法師の山室(やまむろ)に泊まり、十七日越後府中(上越市)の海岸に出て、二十一日には越中の大河に出て白山を仰ぐ本国に帰っている。この戸隠から山中を通って関山に抜ける中世の道については不明である。ただ、信濃町大井の霊泉寺(りょうぜんじ)跡には、「応永十一年(一四〇四)八月時正」との銘文をもつ石造文化財がある(『信史』⑦)。応永十一年は、堯恵の戸隠参詣の四年後のことである。おそらく、室町時代には霊泉寺への参詣(さんけい)者も多く、全盛期であったことから在銘の石造文化財が作られたのであろう。善光寺から戸隠神社をへて霊泉寺に参詣して関山寺に通じる道が、室町時代の山の道であつたといえよう。
七月四日に加賀を出て二十一日帰国であるから、一七日間の道程である。往路と復路は戸隠からの山峰の道を通るので多少の違いがあったであろうが、善光寺と戸隠がセットで参詣されていたことがよく理解される。善光寺参詣曼陀羅(まんだら)に戸隠山・飯綱山がセットで描かれるのも、室町時代の信仰形態を反映していたのである。