善光寺の朝鮮貿易

790 ~ 791

堯恵の参詣からわずか三年後の応仁(おうにん)二年(一四六八)、善光寺の住職善峰は遠く対馬国の宗(そう)貞国に使者を送り、李氏(りし)朝鮮との交易を望んだ(写真31)。その目的は不明であるが、朝鮮貿易での巨額な利益や大蔵(だいぞう)経の入手をねらったらしい。


写真31 宗貞国の墓所 (対馬厳原町 万松院)

 この応仁二年は、伊那郡知久氏出身の禅僧天与清啓(てんよせいけい)が遣明正使(けんみんせいし)として明に派遣された年でもある。この第十二次遣明船に信濃出身の僧良心が乗船を認められていた。水墨画の絵師として著名な雪舟もいっしょに明に渡った。文明五年(一四七三)にはふたたび僧良心は管領畠山氏の使者と偽って、天徳寺住職照隣とともに朝鮮に渡り朝鮮国王から大蔵経をもらっている。文明八年には豊後(ぶんご)国府中(大分市)の雪舟の家を訪れ「天開図画楼記(てんかいとがろうき)」という文章を残した。かれは翌九年の第十三次遣明船にも乗船した。翌年に帰国船に乗って済州島にいたり、理由もなく捕らえられ脱出したが、良心は死去してしまった。かれは信州出身で父の名を秦(はた)久秋といい、朝鮮に医書と灸法(きゅうほう)を伝えて喜ばれ、外交文書などを作成しその一部は『朝鮮王朝実録』に記載され、その事績がいまに伝えられた(村井章介『国境を超えて』)。かれも山伏系僧侶や勧進聖(かんじんひじり)というべき人で、東アジアを舞台に活躍していたのである。

 善光寺は何度か火災にあい、そのたびに再建事業では勧進聖が活躍した。文明九年本堂が焼失すると、勧進聖戒順は灰のなかから黄金の仏の首を探しだし、摂津天王寺(大阪市)に参籠・祈祷して堺北荘(大阪府堺市)で善光寺仏を再鋳造した。善光寺新仏は大和国橘寺(たちばなでら)(奈良県高市郡明日香村)から比叡山延暦寺に逗留(とうりゅう)し、永正五年(一五〇八)天皇の叡覧(えいらん)にいれるよう申請書を提出した。このあいだ三一年間にわたる長い勧進活動が展開されていたのである。

 堯恵法印は文明十七年(一四八五)にも美濃国からふたたび善光寺参詣の旅に出て、北陸道をへて六月十三日越後国府の海岸で京都で交際のあった正才法師の苫家(とまや)に宿泊し、居多(こた)明神の社務花ヶ前(はながさき)氏と交流した。かれの滞在が越後守護上杉房定に聞こえたため、宿を最勝院に移し、翌十四日善光寺に詣でて御堂に通夜している。このときは寺務の宿老が内陣に導きいれてくれた。上杉氏から善光寺寺務に堯恵参詣の連絡が届けられたのであろう。こうした北陸道からの善光寺参詣の例は多く、文明十八年関白近衛房嗣(ふさつぐ)の子息の聖護院(しょうごいん)道興が北陸道に沿って関東へ下向したとき、近江国葛川(かつらがわ)の朽木(くつき)(滋賀県高島郡朽木村)で行印法印と同行することになった。この法印は道興が連歌の席で知りあった専順法眼の同朋(どうぼう)であり、「善光寺参詣ののぞみ有(あり)」として途中までいっしょに旅をしている。七月十五日に越後府中(上越市)に到着した。上杉相模守が迎えに出て長松寺の塔頭(たっちゅう)貞操軒を宿坊とし、善光寺に向かう法印と別れた。旅人同士がこうした便宜をはかりながら、和歌や連歌とともに中世の旅が展開されたのである。