下総・長沼・京都を結ぶ真宗寺院

791 ~ 795

「応永の平和」が終わりを告げ、東国で永享(えいきょう)の乱・結城(ゆうき)合戦が展開されるころ、信濃島津氏として赤沼島津忠国や長沼島津道忠らが活躍するようになる。国人信濃島津氏の本格的な活動である。それとともに浄興寺性順が長沼に寺を建てて定着し、本願寺巧如(ぎょうにょ)や存如(ぞんにょ)とひんぱんな交流をおこなうようになる。

 応永三十四年(一四二七)長沼浄興寺の性順は上京して存如から「口伝抄(くでんしょう)」の書写を許された。永享(えいきょう)六年(一四三四)八月二十二日に性順が死去し、かわった周観(しゅうかん)もこの年上洛して存如から親鸞(しんらん)著「愚禿抄(ぐとくしょう)」の書写を許されている。かれの代になると、京都本願寺との関係はいっそう強固になり、子弟教育のためにこどもを京都の存如に預けるようになっている。本願寺でも代替りがすすみ存如は永享八年巧如から譲状(ゆずりじょう)をうけて寺務をとった。

 存如が周観にあてた手紙によれば、周観のこどもは彦太郎といい長期間にわたって在京しており、親元を離れて「いたわしく候」「返々不便(かえすがえすふびん)に候」と存如も配慮を示している。親の周観は本願寺に多くの銭を「志」として送った。この春にも、下総磯辺(しもうさいそべ)(茨城県猿島郡総和町)の善忠坊が信濃を経由して上京したので、笠原辺(べり)で割符(さいふ)を購入して本願寺に送金しその旨ことづけた。しかし、七月になっても為替(かわせ)は到来しないで違(ちがい)割符になってしまい、存如は「如何様(いかよう)に成り候や心もとなく候」と不安を書き送っている。秋になって上洛していた磯辺の善忠坊が帰国するというので、存如は長沼浄興寺周観への手紙をかれに託した。信濃国が物騒とのことで心配していること、久しく上洛しないままなので当年には上洛されることを待っていること、もう一度上洛され本願寺の造作のようすなどをみてほしいこと、などを書状にしたためている。この「造作」は、存如の代にはじまった大谷本願寺の御影堂などの建築造営の始まりを物語るものとされている。下総国磯辺と信濃国長沼と京都本願寺存如とが北陸経由で交流していたことがわかる。

 磯辺の善忠坊の動静については、永享十一年と推定される五月四日付の存如書状に、「磯辺の善慶(ぜんきょう)房往生ただ今聞き候、……和州も大略無為の分候間めでたく候、去年京都は餓死(がし)・病死もってのほかに候、不思議に今まで存命して候」と周観に伝えている。永享十年に京都では飢饉(ききん)であったことが知られ、翌十一年正月から大和(奈良県)では越智(おち)氏の反乱が起こっていたから、畿内の政治情勢が存如から長沼に伝達されていたことがわかる。この書状にみえる善塵房は磯辺の善忠坊の父にあたる人物で、下総磯辺の勝願寺をさすものと考えられる。勝願寺は親鸞の高弟善性の開山と伝え、かれは高井郡井上氏一族であり、親鸞の消息を最初に編さんした人物として知られている。

 善光寺平の一向宗はこの磯辺六ヵ寺といわれるが、いつから広まるか正確な史実が不明である。長沼浄興寺もいつ始まるか不明であるが、善性系の寺院といわれるから、この存如の時代には下総磯辺勝願寺とともに長沼に浄興寺が定着し、両者一体となって本願寺存如を物心両面から支えていた。会津若松市の浄光寺には、「法名釈善忠 文安二年(一四四五)八月十一日本願寺釈存如(花押)」という「存如書一幅(いっぷく)」があったといい(『会津風土記』)、茨城県磯辺勝願寺には明応三年(一四九四)十月二十九日蓮如(れんにょ)が裏書して善祐(ぜんゆう)に下付した「善忠真影」が現存している。一五世紀前半、磯辺の善慶-善忠と長沼の性順-周観のころ、北信濃の浄土真宗の基礎が固められたのである。

 浄興寺が長沼に定着できたのは、やはり長沼島津氏の後援があったことも忘れられない。島津氏も上洛したときは、本願寺存如と交流している。周観にあてた存如の書状によると「島津殿より八月に料足(りょうそく)を借用候」とあり、本願寺が直接島津氏から五貫文もの銭を借金していた(『信史』⑨)。このころ長沼島津氏は入道道忠の代であったから、本願寺を介して京都の情報を取得していたのであろう。

 存如のもとで養育された彦太郎は成人して浄興寺巧観となり、その子息の了順と了周が上京してやはり本願寺蓮如のもとで養育された。了周の上洛にさいして父の巧観は長沼から京都へ「轡(くつわ)一、鼻皮二」を贈り、在京中には「菜(な)一箱」や五貫文を贈るなど蓮如を経済的に支援している(『信史』⑨)。蓮如も了順が長々在京して帰国するにさいして、了周も同道して帰国したらどうかと勧めたがいますこし堪忍すると返答しているので京都に留め置くことを伝えている。「一両月中には早々迎えをまいらせらるべく候」と書状を書くなど、蓮如が若齢の了順・了周兄弟にたいして親愛・懇切な情を示しているようすがわかる。蓮如は長禄元年(一四五七)に住職になっているが、これらの書状の年次については未詳である。

 この巧如-存如-蓮如の時代、本願寺はもっとも困窮した時期に相当しており、長沼島津氏や磯辺勝願寺・長沼浄興寺への借財などはその証左である。巧観にあてた蓮如の書状には「坂東(ばんどう)下向事、路次(ろじ)の中、子細なく松島まで下向せしめ候、心安く思(おぼ)しめさるべく候」とあり、かれが関東から陸奥国松島(宮城県宮城郡松島町)にまで布教していたことがわかる。長沼西厳(さいごん)寺や西和田小根山宅に蓮如が布教のさい立ち寄ったとする伝承が分布している。蓮如と長沼との密接な関係を反映したものである。八月には、長沼から「二百疋(ぴき)」(銭二貫文)や「四文目(匁)」が送られている。後者は秤量(ひょうりょう)貨幣であるから金銀の通貨か砂金である。金の使用としては信濃でもっとも早い時期の史料となる。こうして北信濃は下総(しもうさ)を介して関東と結び、北陸を介して京都と結びつき、子弟教育や学術宗教の面でも京都と密接な交流がおこなわれていたのである。


写真32 長沼浄興寺への蓮如書状 (浄興寺蔵)