伊勢御師が訪ねる村・町

795 ~ 799

天正九年(一五八一)伊勢の宇治(三重県伊勢市)にすむ御師(おし)荒木田久家は、信濃国で御祓(おはらい)くばりをおこなう信者の名簿を記録した。伊勢御師が御札(おふだ)とともに熨斗(のし)や茶・帯・青のり・ふのり・櫛(くし)・鰹(かつお)などの特産品を持参して、かわりに布施料を徴集して歩いたのである。一種の檀家(だんか)めぐりであり、その権利は旦那職(だんなしき)とよばれ売買されることもあった。

 「川中島分」

会里(あいのさと) 高野与衛門殿    のし五〇本・茶一〇      善光寺平林殿同名也、

同   池内泉殿           熨斗三〇本・帯・茶一〇    宿也、

同   新七郎殿           のし二〇本・茶五

    石川新宮内衛門殿       茶三             麻績安坂の人(おみあざか)の人

    小田切殿           熨斗一把・上茶一〇袋・帯か鰹五か

    同入道殿           熨斗五〇本・上茶一〇袋

    同名腰匠殿          茶五袋

    高野左近殿          のし五〇本・茶一〇袋・帯   御代官也、

    同所二助殿          のし二〇本・帯・茶五つ    宿

海津(かいず)  西念寺            上茶一〇袋・青海苔(のり)・ふのり

駒沢  力之助殿           茶一〇袋・のし五〇・帯

市村  問屋藤七郎殿         のし五〇本・帯・茶一斤

    豊後(ぶんご)殿        のし五〇本・茶一○袋     同所御代官

荒木  千四郎殿           茶三つ

同所  与四郎殿           茶三つ

同所  弥左衛門殿          茶三袋

善光寺内弥左衛門殿          のし五〇本・帯・茶一〇お   御代官

 「葛山(かつらやま)分」

横棚  小野ふけ跡継         茶五つ・青海苔

同そくてしの江本太郎左衛門殿     のし三〇本・茶一〇お

    源右衛門殿          のし五〇本・帯・茶一〇オ   鑪(たたら)殿御代官

    飯縄千日(いいずなせんいち)殿 のし五〇本・茶一〇袋

上ヶ屋 千法師殿           のし三〇本・茶五つ

子息  右京進殿

広瀬  桜藤七郎殿          茶五つ・のし三〇本

立屋  泉殿             のし五〇本・茶一〇袋     鑪殿、上野殿この衆

                                  葛山落合殿同名

中越  番匠周防(ばんじょうすおう)殿 のし五〇本・帯・茶一〇オ   宿也、

子息  五衛門殿           茶五つ

駒沢  民部丞(みんぶのじょう)殿   のし五〇本・茶五袋

風間  大夫式部少輔(しきぶしょうゆう)殿 のし二〇本・茶五つ

大豆島 下総(しもうさ)殿       のし五〇本・茶一〇袋

同   中村半右衛門殿        のし五〇本・茶一〇袋

東和田 縫左衛門殿          茶三つ

吉田  まち藤左衛門殿        茶三つ

子息  新四郎殿           茶三つ

 「長沼分」

長沼正左衛門殿            のし五〇本・上茶一〇袋

和田善左衛門殿            のし五〇本・帯・茶一〇袋   宿也

島津左京進殿             のし五〇本・茶一〇袋

栗田左京助殿             のし五〇本・茶一〇袋

平林民部左衛門殿           のし五〇本・茶一〇袋

若槻丹波守殿             のし五〇本・茶一〇袋     元は東条と名乗候、

回向坊(えこうぼう)          茶五つ・青海苔        元は八幡の人也、

屋代殿                のし二〇本・茶一〇袋

関源右衛門殿同名衆                         数多(あまた)候へ共いんかう衆

まちの善助殿             茶三つ

同藤右衛門殿             茶三つ

片塩二助殿              茶三つ            栗田殿被官

大倉の生板沢殿            のし三〇本・茶五つ

 この名簿によると、戦国時代に伊勢御師の旦那職に所属していたものは、国人クラスや侍衆をはじめ名字をもたない百姓まできわめて多様な階層の人びとである。小田切・長沼・島津・平林・和田・栗田・若槻・屋代などの諸氏は国人ら有力武士であるし、鑪、桜、上野、立屋など葛山落合氏やその同名衆は別名葛山衆といわれた地侍であった。栗田殿被官といわれた片塩二助や松代町豊栄の源関(げんせき)神社につらなる関源(せきげん)右衛門(えもん)やその同名衆らも村名を侍名字にした地侍である。元八幡の回向坊とか上ヶ屋の千法師、海津(松代町)の西念寺、飯縄千日などは僧侶や山伏、神主らである。この時代は百姓らも官途成(かんとなり)・受領成(ずりょうなり)などといって権守(ごんのかみ)や右衛門などの称号をもっていたから、荒木の千四郎、与四郎、弥左衛門や駒沢の民部丞、風間の大夫式部少輔、大豆島の下総なども村の乙名沙汰人(おとなさたにん)といわれる有力百姓であろう。まちの善助や吉田まち藤左衛門などは町人で、市村の問屋藤七郎、中越(なかごえ)の番匠周防らは職人・商人であった。

 こうした多様な階層の人びとのなかに伊勢信仰が流布(るふ)するとともに、伊勢御師を通じてあわびや青のり、ふのり、かつおなどの海産物や茶などが上層民衆にまで入ってきたのである。戦国時代の伊勢御師や熊野比丘尼(びくに)が新しい生活物資を輸送していた。

 伊勢御師の檀家衆は、戦国時代に川中島・葛山・長沼の三つに区分されていたことがわかる。ことに長沼には高井郡の片塩二助や水内郡大倉(豊野町)の生(なま)板沢、埴科郡の屋代氏や本八幡(更埴市)の回向坊、埴科郡松代の関氏など善光寺周辺の人びとが集住しつつあった。長沼城は武田信玄によって築城され、上杉景勝の時代にも整備されつづけた新興城下町であったから、戦国時代の地域開発として周辺からの人口集中が起こっていたのである。