善光寺の門前およびその周辺には、鎌倉時代においてもすでに、参籠者(さんろうしゃ)や善光寺如来を信奉してその霊験(れいけん)を人びとに説いてまわった聖(ひじり)たちが行き来する、都市的な場が形成されていたと思われるが、中世後期になると、さらに職人や芸能者など、さまざまな階層の人びとが集まり住む、全国でも有数の門前町に発展していた。鎌倉時代末期に中南信地方に九体もの作例を残した「仏師善光寺住侶(じゅうりょ)妙海」はとくに有名だが、南北朝時代には「絵師善光寺参河法眼慶暹(みかわほうげんけいせん)」の名が見えることから、絵師や彩色師(さいしょくし)が存在したことも知られる。また、近年発見された享禄(きょうろく)四年(一五三一)の善光寺造営図には、「如来之大工遠江守(とおとうみのかみ)」の墨書(ぼくしょ)があって、近世に善光寺の宮大工を勤めていた島津宇右衛門の祖先が、遅くとも一六世紀はじめごろまでに定着していたことが推測されている。
これらの職人は、当初は善光寺の諸堂・院坊の仏像や建築の造顕(ぞうけん)・修理にたずさわる必要性から、徐々に門前に工房を構えていったとみられるが、仏師妙海や絵師慶暹の作例が中南信地方や東信地方に残存している点からすると、しだいに各地の寺社の注文にも応じるようになっていったことがうかがわれる。また、絵解き用に盛んに描かれ、南北朝期以降の諸本が伝わる「善光寺如来絵伝(えでん)」には、門前に乞食(こつじき)・癩者(らいしゃ)・旅商人などが描かれているものが多いし、応永(おうえい)七年(一四〇〇)の大塔(おおとう)合戦に取材した『大塔物語』では、善光寺西門からつづく桜小路(現在の桜枝町)に住む遊女たちも登場している。
このように、中世後期の善光寺門前は、仏師・絵師・番匠(ばんじょう)らの工房やさまざまなものを商う見世棚(みせだな)が軒を並べ、加えて遊女や芸能者らの居住区域も兼ねそなえた一大都市空間となっていた。一五世紀初頭ころのそのにぎわいぶりは、『大塔物語』に描かれた、「およそ善光寺は三国一の霊場にして、生身弥陀(しょうじんみだ)の浄土、日本国の津にして、門前市をなし」という光景から察することができるが、最近の発掘調査による成果によっても、その一端が明らかになりつつある。
人びとの往来する都市は、各地からさまざまな情報がもたらされたり、逆にまた、情報を発信する起点でもあった。李(り)氏朝鮮の成宗(せいそう)二年(一四七一)に申叔舟(しんしゅくしゅう)が撰録した『海東(かいとう)諸国記』によると、戊子(つちのえね)年(応仁(おうにん)二年、一四六八)、「信濃州禅光寺住持比丘(びく)善峰」が対馬島領主の宗(そう)貞国の仲介で、使を遣わしてきたとある。寺号の用字が異なり、また、「住持」の職名も禅宗系寺院で主として使われたものだが、江戸時代の学者松下見林(けんりん)の『異称日本伝』が「今按(あん)ずるに、禅光寺はまさに善光寺に作るべし」と指摘するように、これが信濃善光寺である可能性はきわめて高いだろう。とすれば、東国の善光寺が当時、はるか海外とも交流していたことになる。この点については、朝貢(ちょうこう)貿易による巨額の収益を期待したもので、それは海を越えた一種の勧進(かんじん)活動であるとの評価があるいっぽう、この前後に日本列島の広い範囲で朝鮮遣使ブームが起こっており、それは「朝鮮大国観」が当時存在していたのではないかといった、斬新(ざんしん)な見方も出されている。いずれにしても、善光寺の国際性を物語る事例であり、全国でも有数の都市となっていたこととも無縁ではない。
善光寺の門前町は、室町時代になると守護所(しゅごしょ)も設けられ、単なる宗教都市ではなく、政治都市としての機能もあわせもつようになっていた。もともと善光寺の近辺は、古代の水内郡家(ぐうけ)の所在地という伝統もあってか、鎌倉時代初期においても「後庁(ごちょう)」とよばれる国府の出先機関が設けられ、在庁官人たちが常駐する状態がつづいていたが、守護所のほうは鎌倉末期までは埴科郡舟山(ふなやま)郷(戸倉町・更埴市)にあったことが知られる。善光寺付近に守護所が移されたことを示すのは至徳(しとく)四年(元中四年、一三八七)の市河文書が初見で、このとき、守護の斯波(しば)義種に叛(はん)した村上氏・小笠原氏・高梨氏・長沼(島津)氏らが善光寺に挙兵し、「守護所平芝(ひらしば)」に押し寄せたとある。当時の「平芝」は、現在の長野市大字平柴に平柴台・小柴見(こしばみ)の両地区をふくめたあたりに当たり、背後の台地上には旭山城・大黒山城・小柴見城といった、いくつかの山城跡が残るから、このいずれかをさしたものだろう。
これらの山城はいわゆる詰城(つめじろ)の役割を果たしたものと思われ、じっさいの守護館(やかた)は別の場所にあったことが想定されている。平柴地区から現在の裾花川を越えた(ちなみに、現在の裾花川の河道は近世の河川改修によるもので、中世には守護館の所在した漆田(うるしだ)郷と平柴とは一体の関係にあったとされる)長野市の中心街には「問御所(といごしょ)」、その一キロメートルほど南には「中御所(なかごしょ)」の地名が残るが、いずれの場所にもこんにち、土塁の痕跡(こんせき)とみられる微高地が確認される。
これらの両「御所」地名が南北朝時代から室町時代における信濃守護所の遺称地として有力視されるが、とくに前者は明治初年の絵図によると、当時まだ方形状の土塁と堀割が残されていて、地名も近世まで「豊(とよ)御所」と表記されていた。これがいわば本庁舎で、「中御所」(もとは「なかのごしよ」と訓(よ)んだ)は第二庁舎の意味ではないかと考えられる。そして、この二つの地名は、犀川の渡河点であった丹波島と善光寺とを結ぶ直線上に位置しているところから、当時の守護所は善光寺の参道に面して立地していたことがうかがわれよう。問御所は後庁郷に属し、中御所は漆田郷に属したと思われるが、和歌山県の中南区有文書の康安元年(正平十六年、一三六一)五月五日某譲状(ゆずりじょう)に見られる「信濃国漆田内屋敷」は中御所にかかわる施設の可能性がある。ちなみに前記の『大塔物語』によれば、応永七年(一四〇〇)斯波義将にかわって信濃守護に任命された小笠原長秀は、着任時に行列をひきいて、まず善光寺に「打ち入った」とあるが、これも単なる善光寺参詣を示すものではなく、守護所が門前に存在したことを反映する記事とみることができる。
このように、守護所が善光寺町に設けられたことは、守護領国制が形成されず、守護と反守護派の国人(こくじん)層との抗争が長期にわたって繰りひろげられていた信濃の場合、善光寺周辺がつねに戦場となる危険性をはらんでいたことを意味した。善光寺の立地した台地の東端に当たる要害の地に、横山城が築かれていたのもその点と関係があろう。築城された時期ははっきりしないが、観応(かんのう)二年(正平六年、一三五一)のいわゆる観応の擾乱(じょうらん)にさいして、「善光寺横山」が尊氏(たかうじ)党の小笠原為経らと直義(ただよし)党の禰津(ねつ)宗貞らの戦場となっているから、このときすでに存在した可能性がある。
ついで、応安(おうあん)三年(建徳元年、一三七〇)八月には、陸奥(むつ)国菊田荘上遠野(かどの)郷(福島県いわき市)を本拠とする国人上遠野正行が、信濃守護上杉朝房(ともふさ)の弟、朝宗にしたがってはるばる信濃までいたり、各地を転戦したのち、善光寺で「御共仕(おともつかまつ)」ったとあるが、これは朝宗が横山城に陣取ったことを示すものかと思われる。至徳四年には、前にもふれたように、守護斯波義種に叛して挙兵した村上・小笠原・高梨・長沼島津氏らの国人が、守護代二宮(にのみや)氏泰(うじやす)方に属した市河頼房らと各地で合戦におよんでいるが、同年八月「善光寺横山」に陣取った市河勢は、村上勢に攻められて大敗を喫している。現在は健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社の境内に本郭(ほんくるわ)跡を残す横山城については、いまひとつ不明な点もあるが、以上の経緯からすると、善光寺を守衛するために、守護方が築いた城であったようである。