たび重なる火災と再建

805 ~ 807

中世後期、善光寺はしばしば戦乱に巻きこまれただけでなく、たび重なる火災に見舞われた。善光寺の火災は治承(じしょう)三年(一一七九)の炎上以来、現在にいたるまで、記録にあらわれるものだけでも十数回におよんでいるが、とりわけ一四世紀末から一五世紀末にかけてのあいだに四回も集中しており、この一〇〇年間が史上でもっともその頻度(ひんど)が高かった。

 その最初は応安三年で、『花営三代記』や『続史愚抄(ぞくしぐしょう)』の記事によると、このときの火災では、本尊は土中に掘り入れられていたために難を遁(のが)れたとある。前に述べたように、当時は守護と反守護の国人一揆(いっき)とが抗争をつづけていたから、戦火のおよぶのを予期して、あらかじめ避難させておいたものらしい。そうした在地状勢も影響してか、再建事業は遅々としてすすまず、復興まで四〇年近くも要している。応永十四年(一四〇七)に多宝塔が、同二十年になってようやく金堂が完成した。この多宝塔の再建については、信濃出身で在京していた僧侶をつてに、当代の五山派禅僧を代表する南禅寺住持の義堂周信(ぎどうしゅうしん)に働きかけて、募縁疏(ぼえんそ)(勧進帳)を執筆してもらっていたことが『空華(くうげ)集』によって知られる。

 ところが、この完成したばかりの伽藍(がらん)も、応永三十四年(一四二七)にまた炎上してしまった。この火災の起こった日付については『薩戒記(さつかいき)目録』をはじめ、いくつかの史料に散見されるものの、それぞれ異なっていて確かなことは不明だが、四巻本の『善光寺縁起』に「諸堂塔々婆(とうば)ことごとく失い、寺内宮殿舎一宇(う)も残るところなし」とみえるように、全山が灰燼(かいじん)に帰するほどの大火だったらしい。火元は『王代記』などによると、東門脇の「乞食(こつじき)念仏房」の家であった。寛正(かんしょう)六年(一四六五)から文明(ぶんめい)元年(一四六九)にかけて堂塔の供養に関する記事が散見することから、やはり復興まで数十年の歳月を要したとみられる。時期的にみて、前にふれた応仁(おうにん)二年(一四六八)の朝鮮遣使(けんし)は、この再建事業にかかわる勧進の可能性が高いだろう。つぎの火災は文明六年(一四七四)で、このときも中心伽藍の如来堂(金堂)が焼失した。ただし、本尊は無事で、とりあえず横山城の下手にあった塔に移座されている。

 つづいて、三年後の文明九年にまた火災が起こった。このときの罹災(りさい)状況や再建にいたる経過については、勧進にたずさわった僧戒順が新鋳(しんちゅう)の善光寺如来を信濃に運搬するに先立ち、後柏原天皇の叡覧(えいらん)に供しようとして執筆した言上状(ごんじょうじょう)が、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の日記『実隆公記』に引用されていて、ある程度うかがうことができる。これによると、頭部だけを残して焼失した本尊の一光三尊像の再鋳(さいちゅう)を志した戒順は、瑞夢(ずいむ)にしたがって摂津(せっつ)国住吉郡(大阪市住吉区)の堺北(さかいきた)荘(ほんらいは最勝光院領の荘園、大阪府堺市)内で募金活動をし、二五年もかかって文亀(ぶんき)二年(一五〇二)ついにその功を遂げたのであった。


写真36 現在の善光寺 善光寺提供

 ここで、興味深いのは、この再鋳した善光寺如来像を戒順は「根本善光寺如来前立(まえだち)新仏」と表現していることである。現在の善光寺の本尊は「絶対の秘仏」とされ、七年目ごとの御開帳時には大勧進に所蔵される鎌倉時代の模刻像を「前立」として安置するならわしになっている。つまり、こんにち、「前立」という用語は、ふだん拝観することのできない本尊にたいする、あくまでも「代理」の仏像という意味で使われているし、一般にもそのように理解されてきた。それでは、この火災で焼失して改鋳された仏像は真の本尊ではなく、こんにちの意味での「前立」であったのかということになるのだが、戒順の行動をとおしてみると、やはりこれは「真の本尊」であったらしい。この矛盾は「善光寺縁起」の筋立てを吟味することで解消する。戒順の言上状で「根本善光寺前立」とよばれているのは、じつはインドで月蓋(がっかい)長者によって鋳造され、百済(くだら)をへて日本に渡来したと「伝承されている(信じられている)」仏像のことをさしていると考えられる。つまり、「前立」とは天竺(てんじく)の毘舎離(びしゃり)国に出現したという「生きている(生身の)阿弥陀三尊」を意識しての呼称なのであった。

 善光寺の当初の本尊が、鎌倉時代に流行した模刻像の様式(一光三尊形式の小金銅仏)からみて、飛鳥(あすか)ないし白鳳(はくほう)期の仏像であったことはほぼ疑いなく、中世にはそれが「根本前立」と認識されていたのである。したがって、この文明九年の火災は、創建以来の本尊が破損した可能性のある善光寺にとっては一大事件というべきものであった。