新たな縁起の編さん

810 ~ 812

この中世後期には上は天皇・貴族から、下は一般庶民にいたるまで、広範な諸階層に善光寺信仰が行きわたったのが特徴といえるが、この普及に大きな役割を果たしたのが、「善光寺縁起(えんぎ)」であった。鎌倉時代までの縁起については第一章第二節で述べたので、ここでは南北朝時代以降の縁起について概観しておこう。

 この時代の新しい動向として、和文体(仮名書き)系統の縁起が登場したことがある。これはさらに、片仮名系と平仮名系とに大別できるが、まずあらわれたのが前者の片仮名系和文体の「善光寺縁起」であった。そのもっとも古いと思われるのが、現在国立公文書館(内閣文庫)に所蔵される、貞治(じょうじ)三年(正平十九年、一三六四)筆写の『信濃国善光寺生身(しょうじん)如来御事』と題するものである。この縁起は大和国にあった楊本(やなぎもと)荘(奈良県天理市)という興福寺領の荘園の、検注帳の紙背(しはい)を利用して書かれている点に特徴がある。書写したのは福智院の実円という僧侶だが、福智院というのは、膨大(ぼうだい)な興福寺領荘園の支配権をにぎり、また代々興福寺別当も勤めた大乗院門跡(もんぜき)に仕える、坊官(寺侍)家のひとつであった。片仮名系和文体といっても、じっさいには漢字片仮名交じり文で、振り仮名もほどこされているが、このような文体は、当時一般に宗教者の講義や説法に利用されたもので、談義本(だんぎぼん)とよばれている。内容上の特徴としては、地獄に堕(お)ちた皇極天皇を本田善光の子善助が身がわりになって救済したという、いわゆる皇極天皇堕地獄(だじごく)救済譚(きゅうさいたん)が登場している点があげられよう。

 いっぽう、平仮名本としては、この縁起ときわめて近い本文を有している、『大日本仏教全書』所収の『善光寺の縁起』と題する三巻本が伝存している。底本の所在がはっきりしないが、もとは絵入りであったことがわかり、おそらくは絵巻物ではなかったかと推定される。三条西実隆の日記『実隆公記』を見ると、一五世紀後半の宮中では「善光寺縁起三巻」が出まわって、盛んに読まれたり書写されたりしていたことが知られるが、本書はこれに該当するものではないかとみられる。以上のように、南北朝時代から室町時代には、京・大和の寺院社会、貴族社会にも、着実に善光寺信仰が広がっていたが、その背景には畿内での善光寺聖の顕著な活動があった。永正(えいしょう)五年(一五〇八)に善光寺如来を堺北荘で新鋳した戒順が、大和橘(たちばな)寺(奈良県高市郡明日香村)や近江坂本(滋賀県大津市)で開帳したあと、さらに後柏原天皇の叡覧(えいらん)に入れることを企てたことはさきにふれたが、明応(めいおう)六年(一四九七)には善光寺の木食聖(もくじきひじり)が大乗院尋尊(じんそん)のもとを訪れているし、大永(だいえい)四年(一五二四)には道芬(どうふん)なる僧が善光寺から上洛して三条西実隆に贈答している(『実隆公記』)。さらに、天文(てんぶん)元年(一五三二)には同じく善光寺の十穀(じっこく)聖が、山科言継(ときつぐ)に勧進帳の真名本(まなほん)への書きかえを求めたりしている(『言継卿記』)。

 仮名本系統の縁起にたいして、平安時代以来の伝統を有する漢文体(真名本)の縁起も、室町時代中に大成された。それが四巻本の縁起だが、その一例として注目されるのが、山形県東田川郡立川町の三ヶ沢(みかざわ)善光寺に伝来する『善光寺縁起』である。現存するのは三冊(巻)であるが、もとは四冊そろっていたものである。現存するものは寛延(かんえん)二年(一七四九)に「蓮光寺住侶覚祐(れんこうじじゅうりょかくゆう)」が、「信州埴科郡西条郷大国宮大夫」などを檀那(だんな)として筆写したとあるが、蓮(練)光寺は松代町東条に現存し、大国宮は同じく西条に鎮座(ちんざ)する中村神社のことで要するに、この縁起は一八世紀中ごろに信濃国の松代周辺で書写されたものであった。さらにその底本は、永正二年(一五〇五)に写されたものであったことが本奥書から判明する。

 従来、四巻本の漢文体の善光寺縁起としては、『続群書類従』所収本と『大日本仏教全書』所収本の二種類の活字本が知られていた。両者の大きな違いは、応永三十四年(一四二七)の火災記事の有無で、この点によって、前者を「応安縁起」、後者を「応永縁起」とよんで、この時代に漢文体縁起に二段階の編さん事業がおこなわれたかのような理解が長らくなされていたが、最近の研究により、こうした分類法に疑問のあることがわかり、この両書の先後関係も明確にすることは困難である。このようななかにあって、室町時代に四巻本の漢文体縁起が確実に存在したことを示すものとして、本書は重要である。