鎌倉時代の北信濃から、当時の臨済宗を代表する僧である無関普門(むかんふもん)や規菴祖円(きあんそえん)が輩出したが、南北朝以降にも、引きつづきわが国の禅宗界をリードするすぐれた僧侶があいついで出た。現在の長野市内に生まれた此山妙在(しざんみょうざい)と性海霊見(しょうかいれいけん)、および隣接した須坂市内にあたる地に生まれたらしい関山慧玄(かんざんえげん)がいる。
まず此山妙在(一二九六~一三七七)についてだが、従来は戦国時代ころの『扶桑五山記』や近世の『延宝伝灯録』(一六七八年成立)や『本朝高僧伝』(一七〇三年成立)などにみえる伝記のみから、その略歴が一般に知られるだけであったが、これらの文献にはその素性をいずれも「不詳姓氏、信州人也」と記すのみであるため、出身地については諏訪の人とか島津氏の出身といった諸説もあった(阿部芳春『信濃名僧略伝集』)。しかし、近年の研究で水内郡窪寺(くぼでら)郷(安茂里の一部)の領主で、善光寺奉行人も勤めたことのある、窪寺氏(本姓滋野)の出身であったことが明らかとなった。それは『河村系図』によると、五代将軍九条頼継に近侍した、相模(さがみ)国(神奈川県)の御家人、河村秀氏(波多野氏一族)の子宗秀が、「信州住人窪寺左衛門次郎」の養子となって「滋野」に改姓したとの注記があることと、南北朝期にできた『諏方大明神画詞(えことば)』の第三十四段から第三十五段にかけて、その点とかかわる妙在の幼少期の説話が載せられていることによる。後者の話を要約すればつぎのようになろう。
鎌倉時代の末期ごろ、窪寺郷内の月輪寺(げつりんじ)(通称窪寺)に観空なる僧侶がいたが、かれは近ごろ広がりはじめた禅宗の宗風をきらうあまり、当時東国における臨済宗の有力道場のひとつであった、下野(しもつけ)国那須郡の雲巌寺(うんがんじ)(栃木県那須郡黒羽町)にいたり、門前に旅宿して住持の高峯顕日(こうほうけんにち)(仏国禅師)のもとに日参して宗論を挑んでいた。この観空にはつねに主人を守護するかのように一匹の子蛇(じつは諏訪大明神の化身)がおり、人びとは不思議がっていた。数ヵ月後、ついに観空も悟りを得るところがあり、顕日から禅の奥義を伝授されて、その弟子となり、名も妙通とあらためた。故郷に帰ってからは草庵(そうあん)を結んで独居していたが、しだいに地頭の窪寺氏の帰依をうけるようになり、その要請で息子を喝食(かつじき)として同宿させることになった。
あるとき、この地頭が諏訪社の頭役(とうやく)にあたったため、潔斎(けっさい)していたところ、その最中に急に妻が産気づいた。触穢(しょくえ)のせいであろうか、彼女は狂乱状態におちいり、治療しようにもなすすべがなかったため、妙通に救済を依頼した。妙通は長年の修行を思いだして加持祈祷(かじきとう)をおこなったところ、諏訪大明神が彼女に取りつき、「汝(なんじ)の行道はいまだ無我の境地にいたっておらず、顕密(けんみつ)の修行さえも未熟であるのが恨めしく思われます」との託宣(たくせん)があった。妙通はこれを聞いて恥ずかしさのあまり涙を流して、日ごろの修行の足りなさを悔いた。神が消え去ると、たちまち妻の狂乱状態は治まったので、妙通は地頭とともに諏訪社の社頭に詣でて感謝した。とくに妙通は七日間参籠(さんろう)して大般若経を真読したところ、結願(けちがん)日には社前の岩上に金色の竜が出現し、また周囲の草木・土石もみな光を発した。その蛇体は柔和な相好を示して二、三度頭を光らせたので、妙通はいよいよ諏訪大明神への信仰の念を深めて、さらに七日間延長して両部にわたる経典読誦(どくじゅ)を果たした。ところが、妙通はそれから一〇ヵ月もたたないうちに端然と入滅してしまった。そこで師を失った檀越(だんおつ)窪寺氏の息子は、このとき鎌倉の建長寺に住していた高峯顕日のもとに送られ、その弟子となった。のちに元に渡り、かの地の名師に学び、今はわが国の大寺院の住持となっている此山妙在がこの僧である。
以上であるが、この話を貫くのは顕密(けんみつ)仏教にたいする禅宗の優越性、さらにはそうした仏法に卓越した諏訪大明神の神徳や霊験であり、『諏方大明神画詞』の編者であった円忠(えんちゅう)(一二九五~一三六四)が諏訪社祠官(しかん)の一族であったことからすれば当然の見方であろう。しかし、円忠が同じ信濃出身で、妙在と同時代人であった事実は看過(かんか)できず、この点から本説話は此山妙在の前半生を語る貴重なエピソードということになり、また鎌倉末期にはこの地方にも禅宗の影響がおよびつつあったことをかいま見せる点でも重要である。顕日について学んだあとは、同書にも記されているように、入元して石霜(せきそう)山などで諸師に参禅した。帰国後は京都五山の第一位、天竜寺の首座を勤め、ついで京都建仁寺三十八世、鎌倉円覚寺四十二世、京都南禅寺二十九世、同天竜寺七世を歴任している。晩年は相模国の鹿山(ろくざん)定正庵に隠居し、永和(えいわ)二年(一三七六)冬に病に伏せると、門弟らに遺誡(いかい)し正統庵の可翁悦公(かおうえつこう)を請(しょう)じて後事を託し、翌年遷化(せんげ)した。火葬したあとの遺骨は定正庵と京都建仁寺の十如是院に葬られたとある。
性海霊見は、『性海和尚行実』や『本朝高僧伝』などの近世の伝記類によると、不還子(ふかんし)とも号し、氏は橘(たちばな)で「信州横山県」の生まれとある。「県」とは郡もしくは郷を中国風にいいかえた、当時の禅僧特有の表現で、善光寺の東に隣接した水内郡横山郷、つまり現在は長野市三輪にふくまれる地域にあたる。横山郷の領主層の出身とみられるが、橘というだけで、具体的な名字はわからない。
七歳にして俊敏さを認められ、一一歳で鎌倉建長寺で出家、一九歳のときには建仁寺にいた元僧清拙正澄(せいせつしょうちょう)に参禅したとある。このあと東大寺で華厳(けごん)宗、延暦寺で台密(たいみつ)を学ぶなど、旧仏教の大義にも通じたあと、ふたたび禅を究めるために京都南禅寺にいた虎関師錬(こかんしれん)に師事した。さらに中国の禅風を学ぶために康永(こうえい)二年(延元四年、一三四三)入元し、空海良念(くうかいりょうねん)や月江正院(げっこうしょういん)などの諸師に面謁(めんえつ)し、観応(かんのう)二年(正平六年、一三二五一)に帰国した。このときすでに師の師錬は遷化したあとだったため、いったんは丹波(たんば)国(京都府)の山中に隠棲したが、貞治(じょうじ)二年(正平十八年、一三六三)将軍足利義詮(よしあきら)の招請で京都三聖寺(さんしょうじ)に住し、ついで足利義満の帰依をうけ、京都東福寺四十世住持となった。その後も天竜寺十七世を勤め、さらに南禅寺や常在光寺などにも歴住している。晩年は東福寺内の退耕庵(たいこうあん)に閑居(かんきょ)、応永(おうえい)三年(一三九六)示寂(じじゃく)にさいしては、門弟たちに墓塔はつくらず、ただ青松一株だけを植えて、そのかわりとせよとの遺誡を残したという。著作に語録や偈頌(げじゅ)を集成した『石屏(せきへい)集』がある。また、頂相(ちんぞう)(肖像画)や木像が退耕庵に伝わるが、後者は頭髪が長く、髭を生やした特異な肖像で、元から帰国した当時の風体をあらわしたとされることで知られるものである。
妙在や霊見とほぼ同時代の関山慧玄は、京都妙心寺の開山として有名で中国留学の経験はなかったものの、かれも日本禅宗史を語るさいには不可欠の人物である。生年は諸説あるが鎌倉末期であることは疑いないようで、『正法山六祖伝』に収められた慧玄の伝記に、「信州人、俗姓源氏、高梨高家之孫也」とみえるように、当時高井郡高梨郷(須坂市高梨)を本拠としていた井上氏一族の高梨氏の出身であった。
幼いころから聡明で、あるとき、父に連れられて鎌倉建長寺の開山忌に出たのが縁で、当寺の東伝士啓(とうでんしけい)について出家した。その後、京都大徳寺を開いた宗峯妙超(しょうほうみょうちょう)(大灯国師)がきびしい方法を用いて弟子を教育しているといううわさを聞きつけ、その門にはせて参堂を許された。妙超からは関山の号をうけ、それまで用いた恵眼の法諱(ほうい)を慧玄とあらためた。元徳(げんとく)二年(一三二〇)には法語を授かったが、その説くところにしたがって美濃国の山中に隠棲(いんせい)した。建武(けんむ)四年(延元二年、一三三七)、かねてから禅の修行をしていた花園法皇が、その離宮を禅寺にするにあたり、妙超の推挙もあって慧玄を開山として招いた。当初、ちゅうちょしていた慧玄も、その山号・寺号が妙超により正法山妙心寺と定められていることを知って、これを受けたとある。延文(えんぶん)五年(正平十五年、一三六〇)の遷化にあたっては、境内の大樹に寄りかかって、法嗣の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)(妙心寺第二世)に出家者としての自らのしめくくりを語りつつ、立ったままで亡くなったとの逸話が伝わる。このとき八四歳(『正法山六祖伝』)とも六四歳(『関山国師別伝』)ともいわれ、遺体は全身を寺内の土中に葬り、塔を建てて微笑庵(みしょうあん)(現在、開山堂として残る)と名づけたという。諡号(しごう)は後奈良天皇より勅諡(ちょくし)された「本有円成国師」のほか累代(るいだい)の五帝から得ているが、こんにち一般には明治天皇から追諡された「無相国師」号が用いられている。慧玄の筆跡は妙心寺所蔵の宗弼への印可状(いんかじょう)ほか数点が伝わり、木像・画像なども寺内塔頭(たっちゅう)をはじめ各地に残されている。
なお、妙心寺は南禅寺のような五山派にたいして、在野派の中心的寺院となり、その法灯は戦国時代には各地の群雄に支持されて、こんにち十数派に分かれている臨済宗のなかでは最大の寺院数を誇るにいたっている。市内唯一の臨済宗寺院である、川中島町今里の円成寺(えんじょうじ)もこの妙心寺派である。
以上のように、鎌倉時代後半から南北朝時代にかけての時期には、第一章で取り上げた無関普門・規菴祖円をふくめると、現在の長野市およびその周辺地域から、日本を代表する禅僧が輩出している事実は興味深い。しかし、こうした傾向はじつは北信のみではなく、郷里は不明ながら越中国泰寺(こくたいじ)(富山県高岡市)の開山となった慈雲妙意(清泉禅師、一二七四~一三四五)、伊那郡開善寺(飯田市)の住持をつとめ、ついで建仁寺に住持(一九一世)したのち室町幕府の遣明使(けんみんし)を何度か勤めた天与清啓(てんよせいけい)(知久氏、生没年不詳)等々、他地域にも多くみられることからして、信濃国全体の特徴であったといってよいだろう。このことは当時の中央の禅僧たちのあいだでも関心を引いていたらしく、五山文学の最高峰に位置した義堂周信(一三二五~八八)は、その詩文集の『空華(くうげ)集』で、「信濃は山が険しく気候が寒冷のため、人びとの性質は勇敢剛気で、いかなる困難や酷苦に直面しても志操(しそう)を変じることはない。それゆえにすぐれた人物が多数出るのだ」といった意味のことを述べている。周信の指摘は確かに正鵠(せいこく)を射ている面もあるが、それだけではなく、すでにふれたように、信濃出身者同士の人的つながりや郷土意識が当時すでに存在して、それが有利に働いていたらしいことも影響していよう。