大安寺と曹洞宗の進出

826 ~ 830

北信濃からあいついで臨済系の禅僧が出たことは、むろん臨済宗の知識や情報が当地方にももたらされていたことを意味しており、その点は此山妙在に関して取りあげた『諏方大明神画詞』の説話にもうかがわれたところである。こうして南北朝時代以降、北信濃の在地武士たちにも臨済禅が受け入れられ、寺院も徐々に建てられるようになったと思われるが、そうしたなかで史料上もっとも古くさかのぼれるのが、現在も長野市七二会に堂宇と字(あざ)名を残す大安寺である。


写真44 大安寺の石塔群 (七二会)

 境内裏手の墓地に、近代になって掘りだされた永和(えいわ)二年(天授二年、一三七六)の造立銘を有する宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。そこに刻まれた造立趣旨によれば、弟子でもあった当時の住持らが師匠である開山雷峰妙霖(らいほうみょうりん)にたいする報恩のために建てた、いわゆる寿塔(じゅとう)であることがわかる。雷峰妙霖は円覚寺に住持していた当時の此山妙在と交流があり、義堂周信への使者を勤めたことなどが知られるものの(『空華日用工夫略集』)、その伝記は、わずかに近世の『延宝伝灯録』に短文があるにすぎない。そのため建長寺の枢翁妙環(すうおうみょうかん)の法嗣で、鎌倉五山の第五、浄妙寺の住持となったことくらいしかわからず、生国や生没年などの略歴は不明である。寺伝では近隣の更級郡の布施氏の出ともいうが、その可能性は少ないだろう。鎌倉時代の事例だが一山一寧(いっさんいちねい)が諏訪郡慈雲寺(下諏訪町)の開山に請(しょう)ぜられたように、地方で禅寺を創建するさいには当時、京都や鎌倉の禅刹(ぜんさつ)から高僧を招いて形式的な開山僧になってもらうことが多かった。開創年時を康安(こうあん)元年(正平十六年、一三六一)とし、檀越(だんおつ)をこの地が属していた丸栗(まるぐり)荘の領主春日氏であるといった伝承にも確証があるわけではないが、前記の塔銘によって、遅くとも永和二年までには建立されていたことだけは疑いない。

 当寺に残る過去帳の写しによると、応永二十年(一四一三)六月、二世住持の大徹禅師が入滅したとみえる。また、境内から出土した宝篋印塔には、このほか永享(えいきょう)二年(一四三〇)と長享(ちょうきょう)二年(一四八八)の在銘のものなどがある。しかし、その後は荒廃して、天正年間(一五七三~九二)にこの地の土豪の春日修理大夫(しゅりだいふ)が、安曇郡仁科郷の曹洞宗大沢(だいたく)寺(大町市)の住持、南室正頓(なんしつしょうとん)を請じて再興し、このときから曹洞宗に改宗したと伝えられるが、このあたりの来歴からは、ほぼ信頼できる寺伝だと思われる。

 このように、大安寺は当初、臨済宗の寺院として創建されたが、その後いったん荒廃し、ついで曹洞宗の寺院として再興され、こんにちにいたっているのだが、北信地方には同様の伝承をもつ寺院が多い。そのなかでも代表的なものをあげれば、長野市では長沼津野に現存する妙笑寺、近隣では上水内郡信州新町の興禅寺、同小川村の法蔵寺、同中条村の臥雲院(がうんいん)、上高井郡小布施町の岩松院と玄照寺などである。

 とくに興禅寺は『本朝高僧伝』などによると、鎌倉末期に、南禅寺六世のあと上野国世良田(群馬県新田郡)長楽寺の住持などを勤めた見山崇喜(げんざんすうき)を開山として建立された寺とみえる。かつて当寺にあった梵鐘は、その銘文の写しによって康応(こうおう)二年(元中七年、一三九〇)、当寺五代住持道詮(どうせん)のときに大檀那(おおだんな)の滋野(香坂)宗継が寄進したことが記されているから、このころには確実に存在したことが知られよう。しかし、その後衰えたらしく、明応から永正にかけてのころ(一五世紀末~一六世紀はじめ)に再興したのが、当時関東における曹洞宗の拠点的な寺院であった上野(こうずけ)国碓氷郡五閑(ごかん)村(群馬県安中市)の長源寺の三世や、下野(しもつけ)国宇都宮の成高寺の住持などを勤めていた天英祥貞(てんえいしょうてい)であった。教団では天真派(希明派)の法統を継ぐ祥貞は、文明(ぶんめい)十五年(一四八三)に佐久郡の大井氏が龍雲寺(佐久市岩村田)を再興したさい、中興開山に招かれたのが信濃とかかわりをもった最初で、その後、前記の妙笑寺や興禅寺のほか、現在須坂市南原にある興国寺と小諸市八満(はちまん)の正眼院(しょうごんいん)を曹洞宗寺院として中興している(興禅寺所蔵『希明派下行状録』、龍雲寺所蔵『大田山実録』)。


写真45 興禅寺 (信州新町)

 妙笑寺は妙正寺とも表記され、当初は水内郡毛野村(三水村)にあったが、天正(てんしょう)八年(一五八〇)長沼城主島津忠直が現在地に移したもので、三水村赤塩毛野の旧地には今も寺跡が残る。ちなみに、妙笑寺・興禅寺・龍雲寺の檀越が、以上のようにおのおの島津氏・香坂氏・大井氏であったのにたいして、正眼院と興国寺のそれはおのおの依田氏と須田氏であった。

 これらの国人領主層が曹洞宗にくら替えした背景には、それまで室町幕府の丸抱えによって支配権力の一翼をになった臨済宗、とくに五山派を中心とする叢林(そうりん)が、将軍権力の弱体化によって急激に地方武士の支持を失い、これを機に曹洞宗教団もかれらの祖先供養・葬送・法要などの求めに応じるかたちで、積極的に地方への宗勢拡大に乗りだしたという事情があった。

 こうした全国的な動向に加えて、信濃の場合には甲斐国の武田氏の侵攻がこれに拍車をかけたといえる。天文(てんぶん)九年(一五四〇)以降、佐久郡から信濃攻略をすすめた武田晴信は龍雲寺を外護(げご)したが、かれの意にしたがわない六代住持の桂室清嫩(けいしつせいどん)を追放して、越後国魚沼郡の雲洞庵(新潟県南魚沼郡塩沢町)から帰依していた太源(たいげん)派の北高全祝(ほっこうぜんしゅく)を新たに招き、元亀(げんき)三年(一五七二)には全祝を領国内の曹洞宗寺院の僧録司(そうろくし)に任命したのである。これは武田氏による寺院統制であるとともに、教団にとっては太源派の教線拡張を意味したが、妙笑寺や興禅寺などは、むしろ、これによってより安定した寺院基盤をもつことにつながった。

 当時信濃に教勢がおよんだのは、以上の天真派と太源派のほかに、了庵(りょうあん)派があった。これは伴野氏が創建した佐久郡の貞祥寺(ていしょうじ)(佐久市前山)の開山、節香徳忠(せっこうとくちゅう)によって信濃にもたらされた一派で、佐久郡内に広く浸透したが、長野市およびその周辺では、埴科郡の清野氏を檀越とした豊泉寺(ほうせんじ)(松代町西条の法泉寺)と禅透院(ぜんとういん)(更埴市森)がある。前者は永禄(えいろく)七年(一五六四)、後者は天文十一年(一五四二)の開創とされる(『貞祥寺開山歴代伝文』)。このようにいくつかの流派に分かれていた曹洞宗では、当時互いに門弟たちの分裂をおそれた祖師たちが、短期間で中心寺院の住職を交替する「輪住(りんじゅう)制」をとっていたが、信濃でも同様で、妙笑寺と龍雲寺・興禅寺・興国寺・正眼院のあいだ、あるいは豊泉寺と貞祥寺・禅透院などの諸寺のあいだで、輪住制もしくはそれに類似した方法が取られていたことがわかる。

 こうして、戦国期における佐久郡から川中島四郡にかけての地域では、武田氏の統制と外護のもとで、曹洞宗は順調に宗勢を伸ばして末寺を分出し、それらが武田氏滅亡後もほぼ維持されて近世にいたった。現在、臨済宗の寺院が長野市内でわずかに一ヵ寺、北信四郡全体でも三ヵ寺にすぎないのにたいして、曹洞宗寺院は長野市内だけでも一一五ヵ寺もあるのは、以上のような歴史的経緯によっている。

 ちなみに、戦国期に曹洞宗に改宗したのは臨済宗の寺院ばかりではなく、むろん真言宗や天台宗などの旧仏教系の寺院も多かった。長野市内に現存する寺院でこうした伝承をもつものに、上松の昌禅寺、松代町松代の大林寺、若穂綿内の如法寺、篠ノ井小松原の天照寺などがある。いずれも天文から天正にかけての時期に真言宗から曹洞宗寺院として中興されたとしているが、改宗の事実についての確実な史料が残されているわけではない。これにたいして、松代町豊栄(とよさか)の明徳(めいとく)寺は関谷氏を檀越とし、天文十八年(一五四九)若穂保科の広徳寺の玉山春洞を中興開山とする伝承を有する寺院だが、近くにある源関(げんせき)神社に残された応永十二年(一四〇五)の棟札銘(むなふだめい)に「明徳寺」の寺号がみられる。ただしこの銘文は後世の加筆もしくは改竄(かいざん)がなされている可能性の高いものだが、同寺がもともと源関神社の別当寺であったことは確かなようで、ほんらいはやはり密教系の寺院であったとみてよいだろう。戦国時代に別当寺が禅宗寺院に転じた例として、北信ではほかに、山岳信仰で栄えた高井郡の高社山麓に位置した、高杜(たかもり)神社の別当寺の谷厳寺(こくごんじ)(中野市赤岩)がよく知られている。