善光寺妻戸衆と時宗寺院

830 ~ 835

鎌倉時代後半に、のちに時宗遊行(ゆぎょう)派の開祖とされる一遍智真(いっぺんちしん)と、二祖の他阿真教(たあしんきょう)があいついで善光寺を訪れたことは、すでに述べた。真教の時代には、その教えに帰依する武士層や出家して付きしたがう僧尼も増加し、かれら門弟を統制するために、急激に教団化がはかられた時期であった。それとともに、真教は相模国に当麻(たいま)道場(無量光寺、神奈川県相模原市)を、つづいて四世呑海が同国に藤沢道場(同県藤沢市清浄光(しょうじょうこう)寺)を建立するなど、一遍自身は無用としていた寺院も各地に建てられていった。しかし、「一所不在」の遊行の精神はそののちも受けつがれて、代々の遊行上人は生涯のあいだに各地を遊行した。その場合、善光寺は開祖一遍が悟りを開いた記念すべき聖地ということで、信濃では佐久郡の伴野(ともの)道場(佐久市金台(こんだい)寺)とともに、一代に一度はかならず参詣すべき寺院とされていたことが、現在わずかに残された日記・伝記などの断片的な記事からわかる。

 確実なところでは、まず応永二十三年(一四一六)に善光寺を訪れた十四世太空(たいくう)がいる。『遊行縁起』に載せられた伝記には、かれが礼堂で日中の勤行(ごんぎょう)を終え、賦算(ふさん)(札配り)をする時分になると、西の空に紫雲がたなびいて、人びとがこれを拝したとある。注目されるのは、このあと戸隠顕光寺も訪れたことを記している点で、ここでもさまざまな奇瑞(きずい)に満ちた叙述がなされているが、善光寺と戸隠山を兼ねて参詣したのは事実だろう。一般に両所参詣で知られている、『善光寺記行』の著者堯恵(ぎょうえ)に先立つこと五〇年ほど前のことである。ちなみに、『往古過去帳』(『時衆過去帳』)の記述から、かれの信濃入りが越後経由で、善光寺周辺では水内郡太田荘の島津氏や埴科郡坂城郷(坂城町)の村上氏のほか、更級郡の横田(篠ノ井横田)、埴科郡のヤシロ(更埴市屋代)などにも立ち寄っていたことが推測されているが、これらは当時、時宗を外護していた国人層ないしはその居住地であったとみられる。

 くだって、天正十七年(一五八九)には三十二世の普光が訪れた。かれはこのとき、善光寺曼荼羅(まんだら)堂で『他阿上人歌集』を筆写したことがその奥書から知られる(現在写本は水戸彰考館所蔵)。このほか、文和(ぶんな)三年(正平九年、一三五四)甲斐国から信濃に入って佐久郡伴野にきた八世渡船、永正(えいしょう)十七年(一五二〇)に越後国から信濃に入り、高井郡の高梨氏の館(やかた)(中野市)や中野(河東)新善光寺、水内郡の黒川西念寺(牟礼村)などを訪れた二十四世不外も、その典拠である『遊行八世上人回国記』や『二十四世御修行記』の現存部分には善光寺の記事はみえないものの、参詣した可能性は高いだろう。

 なお、いわゆる遊行上人ではないが、一遍の法流(遊行派)から分かれたさまざまな門流のなかにも、善光寺を参詣したものが多かった。一四世紀中ごろに参詣した頓阿(とんあ)(『草庵和歌集』)や、嘉慶(かきょう)二年(元中五年、一三八八)に参詣した国阿(『国阿上人絵伝』)がその代表的な僧である。前者は俗名を二階堂貞宗といい、四条派の祖である京都金蓮(こんれん)寺の浄阿の門人で、二条派の歌人としても知られた。後者は国阿・霊山両派の祖とされる僧だが、その伝記には善光寺参詣を「北国修行」と称し、じっさい、越前国敦賀(つるが)の気比(けひ)大神宮(福井県敦賀市)などに詣でつつ北陸道を経由して信濃に入ったことが記されている点で興味深い。当時、畿内や西国から善光寺にいたるには、このように北国路を経由するのが一般的であったことを示す例だが、その理由には北陸地方に位置した白山(はくさん)・立山(たてやま)などの山岳霊地への参詣を兼ねて訪れたことなどのほか、時衆の場合にはとくに、一遍や真教など祖師・先師のたどった足跡を求めて旅立ったことに由来するようである。

 中世の善光寺にはさまざまな宗派・教団の宗教者が訪れたが、とりわけ時衆にとっては以上のように一遍有縁(うえん)の地とされたために、善光寺の存立基盤にも大きな影響をあたえるまでになっている。鎌倉時代末期ごろにかれらの拠点的な堂宇である、念仏堂が存在していたことはすでに述べたが、南北朝時代以降には、寺内居住の時衆は妻戸(つまど)衆とよばれる一大勢力を形成していた。この妻戸衆の活躍の一端を具体的にうかがうことができる事件が、応永(おうえい)七年(一四〇〇)の大塔合戦である。この戦いの顛末(てんまつ)を美文調に描いた『大塔物語』によれば、大塔の要害に立てこもった小笠原長秀方の武将三百余人が自害したあと、これを聞きつけた妻戸時衆と十念寺の聖(ひじり)が戦場に駆けつけ、散乱していた人馬の骨肉を拾い集めて、塚を築いたり卒塔婆(そとば)を建てたとある。このように戦死者の埋葬と供養にあたるのが、かれらの重要な任務であった。


写真46 十念寺 (西後町)

 ちなみに、十念寺は善光寺参道に面した西後町に残る同名寺院のことである。現在は浄土宗になっているが、この寺を開いたのは時宗一向派の願阿(がんあ)と伝承されている(宇都宮市一向寺所蔵『仏向寺血脈譜(けちみゃくふ)』)。一向(いっこう)派の開祖の一向俊聖(しゅんじょう)は一遍と同時代の僧で、一遍と同じような布教活動をしていたが、直接の師弟関係はなかったとされている。のちに「時宗」という枠組みでひとくくりにされる教団も、当時は相互に独立した小集団といったほうが正確で、そうした複数の相似た組織に属する聖たちが、いずれも善光寺に進出していたのであった。善光寺門前に存在した一向派の時衆関連の施設として、もうひとつ療病院があった。『仏向寺血脈譜』によれば、養阿が開いたとあるが、その場所や実態ははっきりしない。いずれにしても、死者の葬送・供養とともに、時衆の社会事業的な活動を示す事例として貴重である。

 室町時代以降になると、善光寺とその周辺だけではなく、信濃国内にも多くの時宗寺院が成立してきた。史料的にもっとも古くたどれるのは、南北朝時代に伴野道場として登場する金台(こんだい)寺(佐久市野沢)であるが、すでに鎌倉時代に建立されていた同じ佐久郡の落合新善光寺(佐久市落合)なども時宗系寺院とする見方が有力である。いっぽう、京都市東山区の長楽寺に所蔵される、全国の時宗遊行派の寺院目録である『遊行派末寺帳』(七条金光寺旧蔵)には、信濃国の部分に二三ヵ寺が載せられている。本書は奥書によると享保(きょうほう)六年(一七二一)に筆写されたものだが、近世以前の古い目録に依拠していたとされ、一部に錯簡のあることが指摘されているものの、ほぼ中世後期の状況を示すものではないかと考えられている。このなかで、現存するのは、前記の佐久郡伴野荘の金台寺と同郡平原(小諸市平原)の十念寺の二ヵ寺にすぎないが、寺号の下に付記された当時の地名と現存地字名などを比較検討することにより、それらのおおよその所在地を比定できるものもある。

 現在の長野市域では、まず小市郷に蓮花寺(れんげじ)があった。これについては長野市安茂里の字中御堂沖に「れんげんじ」の地字名があり、寺院跡の伝承とそれと思われる平地が残されている。『藤沢山過去帳』によると、天正(てんしょう)二十年(一五九二)と慶長(けいちょう)二年(一五九七)のところに、「信州小市蓮花寺」の覚阿弥陀仏(かくあみだぶつ)の記載がみえ、このころまで時宗寺院として存在し、住僧もいたことが確認できる。外護(げご)者については、この付近に居館もあった小田切氏が想定されている。

 もうひとつ長野市域で若槻に所在地が比定される「永明寺 若槻」がみえるが、これについては他に関連する文献や伝承がなく、いまのところ確かな寺地は不明である。このほか、水内郡内に所在したことが有力視されるものに、「長泉寺 黒河」と「勝名寺 賀佐(かさ)」があった。前者は太田荘黒河郷、すなわち現在の牟礼村黒川に比定される。「黒川」の地名は県内にいくつかあるが、前述のように遊行二十四世の不外が当地の西念寺に立ち寄っていた事実(ただし、長泉寺と西念寺の関係は不明)や、当地の領主島津氏が時宗の有力な外護者であったことからほぼ疑いないだろう。ちなみに、遊行二十六世の空達の生国は信州で、島津氏の出身であったと伝えられている(『遊行藤沢御歴代霊簿』)。後者の「賀佐」は若槻新荘内の加佐郷のことで、現在の豊田村替佐(かえさ)に比定するのが通説である。これも具体的な寺地は定かではないが、若槻永明寺とともに、外護者が高梨氏であったことをうかがわせる点で注目される。

 善光寺の所在地ということで、一時期は信濃にもかなりの宗勢を伸ばしていた時宗だが、それらの寺院は近世初頭までにはほとんどが廃絶した。その理由は、ひとつには戦国時代の武田氏による信濃侵攻と無関係ではないようである。信濃国内で時宗の有力な外護者であったと思われる武士は、北信では島津氏、高梨氏、村上氏、東信では伴野氏、南信では諏訪氏などが代表的だが、かれらの多くは武田氏により駆逐されたり没落したりしている事実が、そのことを示唆している。いっぽう、他の教団とのかかわりでみると、前述のように戦国時代に武田氏の外護と統制のもとで急成長した曹洞宗とは、外護者が国人層であった点や寺院の分布状況に共通性が認められることから、主として曹洞宗の進出に取ってかわられたという評価もできるだろう。遊行上人は単に宗教者というより、歌人あるいは連歌師(れんがし)といった文化人の側面をもっており、地方の武士層は教義よりも、そうした学芸方面の知識のほうに魅力を感じて、遊行上人の訪れを歓待していた形跡もある点からすると、葬送儀礼などに組織的に取りくみつつ、教団拡張に取りくんだ曹洞宗に席巻(せっけん)されたのも当然かもしれない。ただし、この時期までに、つぎに述べるような浄土宗や真宗も着実に進出しつつあり、なかにはこれらの宗派に転宗した寺院もあった。