浄土宗の動向

835 ~ 838

法然(ほうねん)の門流のうち、のちに浄土宗とよばれるようになる教団に属する僧侶では、鎌倉時代にすでに明遍(みょうへん)・生仏(しょうぶつ)・証空・良忠らがあいついで善光寺を訪れたことはすでに述べた。このうち、教団で浄土宗第三祖とされている良忠(記主禅師)の門下の良弁尊観は、鎌倉の名越谷(なごえがやつ)に道場(安養院)を開いて門弟を養成したため、後世、名越流の祖とされている僧だが、その弟子の良慶明心は鎌倉末期ごろ、善光寺の南大門わきに月形坊なる談義所を設けて布教したとされている(『開題考文抄』、『月形函事』)。その後、陸奥(むつ)国出身で、善光寺参籠の折に明心の弟子となった良山妙観が、故郷に帰って同国岩城(いわき)郡の好嶋荘(福島県いわき市)を本拠として宗教活動を開始したため、この法流は主として陸奥国岩城地方を中心に東北や北関東に広がっていった。

 名越派の教義についてはこんにち不明な点が多いが、名越派二祖とされている明心が善光寺如来の信奉者であったため、初期名越派には善光寺信仰の影響がみられることが特徴である。たとえば、名越派総本山の福島県いわき市平の専称寺や、そのすぐ近くにあり良山が開山となった如来寺には、かつて善光寺式如来が所蔵されていたし、栃木県芳賀郡益子(ましこ)町の円通寺や福島県相馬郡鹿島町の阿弥陀寺には現在もそれが本尊となっているように、南北朝時代にさかのぼりうる成立の古い浄土宗名越派の寺院は、いずれも善光寺式如来を安置していたことから、その点がうかがえるだろう。

 しかし、肝心の善光寺周辺には名越派は定着せず、信濃全体にも教線は伸びなかった。これは名越派だけではなく、浄土宗全体についてもいえることである。その理由としては、善光寺では時宗を中心とした念仏系の勢力が主流で、浄土宗でも、どちらかというと証空の門流である西山義(せいざんぎ)の影響が強かった形跡があること、そのいっぽう、当時の浄土宗は主流とされた鎮西義(ちんぜいぎ)でさえも、名越派のほかに白旗派・藤田派・三条派・一条派・木幡(こはた)派など小集団に分かれているなど、それぞれの門流が各地で個別に布教活動をしていて、全国的な教団組織は存在していなかったことなどが背景として考えられる。ただし、この点は他の宗派と似たり寄ったりだろう。


写真47 寛慶寺
善光寺別当だった栗田氏の建立 (東之門町)

 北信濃に浄土宗の教線がおよんでくるのが、やはり戦国時代ごろであったらしいことは、長野市内に現存する浄土宗寺院には、この時期に成立、もしくは改宗して中興(移転)されたとの伝承をもつものが多い点からうかがえる。前者の例では、平林の宝樹院、七二会笹平の正源寺、松代町西条の西楽寺、松代町東条の善徳寺などが代表的である。後者の例では、長野東之門町の寛慶寺、茂菅の静松寺、長野西町の西方寺、安茂里小市の無常院(南泉寺)、篠ノ井段ノ原の光林寺、篠ノ井塩崎の天用寺、稲里町下氷鉋(しもひがの)の善導寺、松代町西条の西念寺などがあげられ、その数はかなり多い。後者の場合、西方寺が前身は真言宗の宝乗寺であったという寺伝を有する以外は、ほとんどの寺院が天台宗からの改宗と伝えている。

 もっとも、以上の点については、いずれの場合も同時代の確実な典拠史料が現存するわけではないが、浄土宗諸派の全国的な事例を勘案して、北信濃でも戦国時代に旧仏教系の寺院を復興させるかたちで教線を拡張していったらしいことは、ほぼ事実に近いとみてよいだろう。この点は前述した曹洞宗の北信濃への進出過程とよく似ているが、曹洞宗の檀那が有力国人層であったのにたいして、浄土宗の場合には、主としてそれよりも下の地侍層であったらしい点が特徴といえるようである。また、布教にあたった教団側の人物については、伝承にとどまるとはいえ、前出の寛慶寺・静松寺・光林寺・西念寺の少なくとも四ヵ寺が洞誉春虎(とうよしゅんこ)なる僧を中興開山と伝えていることは偶然とは思われず、その略歴等ははっきりしないものの、おそらく実在の人物で、当該期の北信濃に浄土宗を広めた中心的人物の一人であったと推測される。


写真48 仏導寺
熊谷直実・玉鶴姫伝承が残る (芹田若里)

 ところで、現存する浄土宗寺院のなかには、刈萱道心(かるかやどうしん)・石堂丸(いしどうまる)父子の伝説とその絵解きを伝えている北石堂町の西光寺(刈萱堂)や西長野往生地の往生寺、あるいは熊谷直実(なおざね)・玉鶴姫父娘の伝説を伝える若里の仏導寺のように、説経節に典拠のある伝説をもつものがいくつかある。これらの寺院が正式に浄土宗に属するようになったのは近世に入ってからのようであるが、江戸時代初期から流行する説経節のうちでも、「せっきょうかるかや」などは、すでに中世後期に時宗化した高野聖(こうやひじり)によって諸国に唱導されていたとの説もある点からすれば、そうした念仏聖が定着したことに起源のある寺院もあったのではなかろうか。なお、西後町の十念寺も現在は浄土宗だが、すでにみたように、当寺は一向俊聖の弟子の願阿の創建と伝えられ、南北朝時代にはその存在が確認できる寺で、寛永年間(一六二四~四四)に浄土宗寺院として中興されたとの寺伝を有している。北信濃では他に見あたらないが、このように時宗から浄土宗に改宗した寺院も全国的にはしばしば例があった。