真宗と「本尊裏書」

838 ~ 843

法然房源空の弟子のうち、親鸞(しんらん)の門流は「浄土」の真の教えということで、当初はみずから「浄土真宗」と称したこともあるが、中世には一般に無碍光宗(むげこうしゅう)、あるいは一向俊聖の門流(のちに時宗の一派)と混同されて一向宗(いっこうしゅう)とよばれることが多かった。「浄土真宗」という教団名が公称として確定するのは近代になってからである。こんにち、教団では真宗と略称することが多く、それが一般にもよく使われつつあるので、ここでもこの呼び名を用いることにする。

 信濃で真宗の教線が主におよんだ地域は、後世の状況からすると、善光寺平を中心とする北信地方、松本市とその周辺、および飯田市とその周辺の三ヵ所に集中するといういちじるしい特徴がある。とくに北信四郡には現在、長野県内にある真宗寺院の約八〇パーセントが集まっている。北信地方に真宗の教えがいつ、どのようにもたらされたのかという点については、近世初期までにさまざまな伝承ができあがり、こんにちそれらが幅広く受け入れられているが、確実な同時代の文献史料となると、きわめて少ないのが現状である。

 北信の真宗関連の史料として、信憑(しんぴょう)性のあるもっとも古いものは、今のところ覚如(かくにょ)(親鸞の曾孫)の子の存覚(ぞんかく)が著した『存覚袖(そで)日記』にみえる、貞治(じょうじ)六年(正平二十二年、一三六七)十一月二十六日条の「信乃江源治」に本尊(名号)を下付したことを示す記事とされる。これについては従来、「信乃江」は更級郡の篠ノ井(つまり現在の長野市篠ノ井)のことであり、この地に所在した源治の教団が、その後に下総(しもうさ)における親鸞の弟子の善性系の門流が信濃において展開する橋頭堡(きょうとうほ)になった、と評価するのが通説になっている(千葉乗隆『中部山村の真宗』)。しかし、「信乃江」を篠ノ井と解せるかどうかははなはだ疑問のあるところで、信濃を「信乃」と表記することがしばしばあった点からして、これはむしろ信乃(信濃)国の「江源治」と解釈すべきであると思われる。また、「江」は一般に大江の略称として用いられるから、源治なる人物の俗姓(氏名)が大江氏であったことも推察されよう。いずれにしても、この記事は南北朝時代、信濃における初期真宗の流伝を示唆するものとはいえ、それが北信かどうかは断定できないことになる。

 また、覚如の著した『本願抄』の一本に、その子の存覚が「信州善教寺」に書きあたえた旨の奥書を有するもの(『真宗法要』所収)が伝わり、この善教寺を長野市吉田本町に現存する善敬(ぜんきょう)寺に充てる説が地元に根強くある。しかし、善教が現在の飯田市付近の生まれであることが知られる荒木門徒の寂円の弟子であった(『存覚一期記』)点からすると、この善教寺も南信方面に存在したとみるのが妥当だろう(『中部山村の真宗』)。

 これにつぐものとして、古牧西尾張部に現存する光蓮(こうれん)寺(東派)に伝来する『念仏往生要義抄』に記された奥書がある。これによれば、この聖教は永享(えいきょう)十一年(一四三九)、蓮如(れんにょ)が「ミノチ郡西クホノ郷之内勝善寺」の了慶の所望によって、授与したものであるという意味のことが書かれている。蓮如の署名の下には花押(かおう)も据えられているが、近年、網羅的な蓮如の筆跡の研究がすすんでおり、その成果によれば、これは自筆とは認められず、近世になって書かれたもののようである。ちなみに、「西クホノ郷」の地名についても、慶長十六年(一六一一)にできた『坊主衆聞書』(本願寺所蔵)に「西クホ善勝寺」が認められるものの、ほかには当該期の在地史料にまったく所見がなく、所在地もはっきりしない。よって、これも北信における真宗の進出を示す徴証とみなしてよいかどうかは疑問であろう。

 その後の真宗の展開過程を、ある程度うかがうことのできる史料は、やはり各寺院に残された本尊裏書(うらがき)である。本尊裏書とは、真宗の寺院(道場)で本尊として掛けられた法然や親鸞をはじめとする本願寺の歴代門主の真影、あるいは「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)、方便法身尊像などの掛軸の裏に、門徒である願主の申請によって、門主が書きあたえた文章の総称であるが、とくに名号については蓮如以降、それ自体を門主自身が執筆して下付することが多かった。

 北信関係のもので、今のところもっとも古い年紀があるのは、新潟県新井市小出雲の照光寺に所蔵される方便法身尊像(阿弥陀如来絵像)で、現在は一部剥落していて判読できない部分もあるが、「長禄(ちょうろく)四年(一四六〇)」に「信州高井郡小柳郷井上」の釈行善(しゃくぎょうぜん)が蓮如から授けられたことが記されているものである。照光寺の寺伝では、はじめ高井郡の井上(須坂市井上)にあり、のち水内郡の古箕(ふるみ)郷(のち熊坂郷古海村、現信濃町古海)に移り、さらに近世初頭に現在地に移転したとの伝承を有している。この伝承を裏づけるとされるものとして、同寺にはもう一点の方便法身像があり、これには永正(えいしょう)十年(一五一三)に「坂東磯辺(ばんどういそべ)門徒」で水内郡古箕郷内牧に住む釈慶信が「大谷本願寺」の実如(じつにょ)から下付をうけたことが記されている。この二点の本尊裏書は、通説ではかなり信憑性に富むものと考えられているが、ただ前者の「小柳郷」は当時の他の史料に所見がなく、平安時代以降独立した所領であったはずの井上郷がなぜ、「小柳」なる郷名を冠せられてよばれていたのかがよくわからない。したがって、なお疑義も残るものの、蓮如が門主として活動する一五世紀後半には、北信にも真宗門徒が定着しはじめていたことを裏づける史料とみることは許されるかもしれない。

 蓮如の本尊裏書は全国的にみて、文明(ぶんめい)年間(一四六九~八七)のものがもっとも多く残されているが、長野市関係でもこの時期のものが四点ほどある。そのうちの三点は現在、新潟県上越市高田の浄興寺に所蔵される、「七高僧絵像」「法然絵像」「親鸞善性連座絵像」である。最初のものは文明十一年(一四七九)、あとの二点は同十五年に下付されたもので、いずれにも「釈巧観」が願主とあり、また「信州水内郡太田荘長沼浄興寺常住物」との記載があるように、太田荘長沼郷(長沼)に寺があった当時の遺物である。この寺が越後に移転したのは、慶長十五年(一六一○)ごろのことで、海津城主からこの年越後福島(上越市)城主に移った北信四郡の領主の松平忠輝の招きによるものであった。

 もう一点は長沼大町の西厳(さいごん)寺に所蔵される「方便法身尊像」で、年号の部分は消えているが、「己丑(つちのとうし)」の干支から文明元年(一四六九)のものと考えられる。なお、当時の浄興寺の門徒に、水内郡芋川荘二蔵(にのくら)郷(信濃町)に存在した浄専坊や若槻荘(若槻付近)にあった正覚寺がある。前者については小布施町の浄照寺に所蔵される「方便法身尊像」の天文(てんぶん)三年(一五三四)奥書、後者については長沼に法灯を継いでいる正覚寺に所蔵される「顕如(けんにょ)絵像」の文禄(ぶんろく)二年(一五九三)奥書から知られる。真宗の寺院は当時はまだ浄専坊のように坊号でよばれるものが多かったようで、その構えも現在のような壮大な寺院建築ではなく、民家の母屋をやや大きくした程度の道場形式のものがふつうであったとされている。真宗ではどの寺院にも各地を移転したとの伝承がともなっているが、それもひとつにはそうした身軽さに起因していたのでないかと思われる。

 以上のような本尊裏書の類は、近世初頭のものまでふくめると、北信に約二〇点ばかりが伝わっている。これらの裏書や由緒書の類、さらに京都の本願寺側に残された史料などによれば、当時、北信で有力な門徒とされていたものに、前出の浄興寺のほかに、更級郡塩崎郷(篠ノ井塩崎)の康楽寺と埴科郡倉科荘額(ぬかた)(更埴市)の本誓寺(近世初頭に移転して松代町に現存)があった。これらの寺院は慶長十六年にできた『坊主衆聞書』には「信濃三ヶ寺」とみえている。同書には「座輩ノ次第」として、康楽寺を頂点とする信濃国内での序列を定めた記事もあるから、このころまで本願寺を中心とする真宗の教団編成の波が信濃にもおよんでいたことがうかがえる。

 ただ、総じて信濃国内の門徒は教団内での位置は低く、寺格を高めるためにさまざまな努力をしていたようである。たとえば、浄興寺のように本願寺に出仕して門主に奉公することもあったが、天正(てんしょう)五年(一五七七)の石山合戦に、信濃の真宗諸寺院が協力して本願寺に米を送ったのも、単に主従関係というだけでなく、そうした意図もあったとみるべき行動だろう。北信濃には、当地の真宗寺院は下総(しもうさ)国下河辺(しもかわべ)荘磯辺(いそべ)(茨城県猿島郡総和町磯部)の勝願寺にいた、親鸞の弟子である善性の門徒六人が移住することによって開かれ、しかも、この善性は信濃国高井郡の武士、井上氏であったとする、いわゆる「磯辺六ヶ寺伝承」が根強く伝えられている。「磯部門徒」という語は須坂市南原町の普願寺(六ヵ寺の一つ)所蔵の明応七年(一四九八)の方便法身尊像裏書(実如筆)を初見として、以後いくつかの事例が残るから、磯部勝願寺と北信の真宗門徒とのあいだには早くから交流があったことは確かだろう。しかし、ほんらいそれとは無関係のはずの多くの寺院までが、それに付会した伝承を有するようになるのは中世末期ころからで、その背景には門徒を親鸞の法脈に結びつけ、その道場の由緒を高める目的があったらしい。


写真49 磯部勝願寺 (茨城県猿島郡総和町磯部)