諸国をめぐり歩き、如法に書写した法華経を各地の寺社・霊場に奉納して歩く巡礼者を回国聖(かいこくひじり)というが、そのなかでとくに各国一ヵ所ずつの聖地に一部八巻ずつ納経して歩いた、六十六部聖(略して「六部」)がすでに鎌倉時代に出現しており、信濃では善光寺がその霊場となっていたことは、金沢文庫文書のなかに、「社寺交名(しゃじきょうみょう)」と名づけられた六十六ヵ国の霊場リストが残されていることからわかるが、こうした六十六部は中世後半になると、さらに広範にその活動がみられるようになった。
六部は納経のさいには霊場に備えつけられた受付帳に記帳し、奉納をうけた寺社側では、六部にたいして受取状を発給した。この受付帳や受取状の実例としては、越後国の納経所であった蔵王堂(新潟県長岡市西蔵王の金峰(きんぷ)神社と安禅寺)に関するもので、康永(こうえい)元年(興国三年、一三四二)から文和二年(正平八年、一三五三)ごろにかけての分が、現在、福島県耶麻(やま)郡西会津町の真福寺にまとまって伝存している。このなかには信濃関係のものが数点ふくまれ、善光寺の記載も二、三ヵ所にみえる。善光寺が発給した受取状は「下野(しもつけ)日光山」や「上野世良田山(こうずけせらたさん)長楽寺」などから発行された受取状といっしょに残るが、これは六十六ヵ国の回国を達成した聖が、まとめて蔵王堂に奉納したものらしい。また、受付帳とみられる帳簿では、康永三年(興国五年、一三四四)に善光寺ともう一つ別の寺の聖二人が連れだって蔵王堂に納経したことを示すものがある。
中世の唱導説話のなかに、北条時政あるいは源頼朝の前世が六十六部の回国聖であったとする伝承があり、法華経を書写した功徳によって、頼朝が将軍として生まれ変わったとか、北条氏が執権として天下を掌握できたといった説話の構成になっている。とくに前者は頼朝坊伝承あるいは頼朝転生譚(てんしょうたん)とよばれ、横浜市金沢文庫所蔵の『六十六部縁起』や仏教説話集の『三国伝記』などに描かれているが、建久(けんきゅう)八年(一一九七)の善光寺参詣の事実を下敷きとしてできたらしいこの説話は、回国聖によって主として東国に伝わっていった。長野市茂菅にある静松寺(浄土宗)には、回国聖の頼朝坊が死去したところであるとの伝承とともに、その使用したとされる箱笈(おい)が伝わるが、長野市の近隣には、ほかにも回国聖によってもたらされたとみられる伝承が多く残されている。
なお、全国六十六ヵ国の霊場の数は、時代とともにしだいに増える傾向にある。豊後(ぶんご)(大分県)余瀬文書のなかに伝わった六十六部奉納札所(ふだしょ)覚書によれば、信濃でも中世末期までに戸隠顕光寺が加わっている。近世に入ると、さらに飯縄(いいづな)大明神と諏訪大明神が加わっていたことが、山梨県韮崎市千野家所蔵の正徳(しょうとく)三年(一七一三)から享保(きょうほう)三年(一七一八)にかけての納経受取帳によって知られる。
六部などの回国聖は全国を遍歴していただけに、山伏のような修験者(しゅげんじゃ)と存在形態に共通するものがあった。回国聖の具体的な姿については、たとえば大阪市藤井寺市の小山新善光寺に所蔵される「善光寺参詣曼荼羅(まんだら)図」に、白装束に箱笈を背負った人物画像が描かれているのがそれだという指摘があるが、その風体は山伏と変わるところがない。じっさい、いわゆる善光寺聖のなかにも、修験者的な行動様式を取るものもいた。十穀聖(じっこくひじり)はその代表である。これは米・麦・粟(あわ)などの一〇種類の穀物を断ち、草の根や木の芽類だけしか口にしないという修行段階にある宗教者の一種で、木食(もくじき)聖もほぼ同じ意味である。長禄(ちょうろく)二年(一四五八)に『戸隠山顕光寺流記(るき)』を編さんして奉納した有通が、「十穀僧」であるとみずから称していたように、各地の山岳霊場にその存在が知られるが、善光寺如来の霊験を説いてまわった十穀聖は、中世後期に主として畿内を中心に活動していたようである。明応(めいおう)六年(一四九七)善光寺の木食聖が、興福寺大乗院の院主尋尊(じんそん)のもとに『善光寺縁起』と曼荼羅(まんだら)を届けたり(『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』)、天文(てんぶん)元年(一五三二)「善光寺之十穀」が山科言継(ときつぐ)を訪れ、仮名書きの勧進帳を真名(まな)(漢字)書きにあらためてくれるように依頼している(『言継卿記』)のは、その一例である。
いっぽう、善光寺を訪れるもののなかには、参詣の回数を多く重ねれば、それだけ多くの功徳(くどく)を得るといった信仰も起こっている。『阿弥陀経』に典拠のある「阿弥陀四十八願」に倣(なら)った「四十八度詣」はそのひとつである。これは一般の参詣者にはなかなか達成するのが困難で、当初はやはり一種の苦行として始まった行為とみられる。栃木県下都賀郡岩舟町の小野塚経塚からは、天文五年(一五三六)の年紀のある銅製の経筒が出土しているが、これは道祐(どうゆう)なる修行者が善光寺四十八度参詣を記念して奉納したものであった。大本願に所蔵される栗田文書のなかに、永禄(えいろく)十一年(一五六八)武田信玄が、当時善光寺の堂主を称していた栗田鶴寿(かくじゅ)あてに出した朱印状があるが、これには堂妙坊・堂照坊の二坊は「四十八札」を発行できるかわりに、仏前の灯明を懈怠(けたい)なく勤めること、および堂中で「四十八札」を発行した場合は、その札銭は経衆と中衆とのあいだで配分すべき旨が定められている(口絵参照)。当時、四十八度詣を志すものにたいして、善光寺の院坊がお札を発行して収入源にしていたことを示しており、その背景には寺社参詣の流行にともなって、しだいにそれに挑戦しようとする宗教者が増加していた事実がうかがえよう。四十八度詣は近世に入るとますます増え、それを記念した供養塔や常夜塔が境内に建立された。