さまざまな山岳信仰

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熊野信仰は鎌倉時代はじめにはすでに北信にも、武士層を中心に受容されはじめていたが、中世後期になるといっそう広範に流布していた。享禄(きょうろく)四年(一五三一)に作成された「善光寺造営図」には熊野三社図が描かれているから、これ以前に善光寺境内にも熊野三社(本宮・新宮・那智)が勧請(かんじょう)されていたことが明らかである。戸隠にも同様に熊野信仰の影響がおよんでいたことは、『戸隠山顕光寺流記』によると、当時、山麓(さんろく)から本院にいたる参道に王子(おうじ)社が設けられていた事実が示している。山中には切部王子・津波王子・薬山王子など六ヵ所、参詣路に中沢之明神(上屋札宮)・嶺(みね)宮・払沢宮・桜之宮(挙屋(あげや)宮)があり、さらに善光寺周辺の鍋石(なべいし)宮(所在地不詳)・井福社(湯福神社)・武井社(武井神社)・妻成(つまなし)社(妻科神社)および善光寺境内の白山社が、戸隠の王子と位置づけられていた。王子とは御子(みこ)神を祭るとともに参詣者の休息の便をはかった場所のことで、すでに紀伊熊野三山への道筋にそって存在したそれをまねたものであった。

 ここで、注目されるのは、善光寺と密接な関係をもつ神社までが戸隠の王子社にされていたことである。平安後期以来、善光寺が天台宗寺門派の三井寺の末寺であったのにたいして、戸隠顕光寺はそれと犬猿の仲にあった山門派の比叡山延暦寺の末寺となっていたから、当初は在地の善光寺と戸隠のあいだにも緊張関係が存在した形跡がある。しかし、中世後期には中央の有力寺社の影響力が薄れたこともあり、両所は隣接した霊場ということで、むしろ寺僧間の交流は緊密となって、各地から来る宗教者も双方を兼ねて参詣するようになっていた。具体的な人物としては、時宗の太空や歌人の堯恵(ぎょうえ)が代表的だが、永禄四年(一五六一)にできた『修験問答』にもそれが一般的になっていた当時の状況をうかがわせる記事がある。そうした雰囲気のなかで、貞治(じょうじ)四年(正平二十年、一三六五)には、善光寺西門の正一房と戸隠中院の義養坊が連れ立って紀伊熊野の本宮を訪れるというようなこともあった(熊野本宮大社所蔵『諸国檀那願文(だんながんもん)帳』)。在地の霊場で熊野信仰の影響をうけたものとして、長野市周辺ではほかに松代町の皆神山(みなかみやま)があったが、これについては次項で述べる。

 熊野信仰についで北信に入ってきたものに、加賀の白山信仰がある。信濃全体では木曽郡大桑村殿(との)に鎮座する白山神社社殿が、元弘(げんこう)四年(建武元年、一三三四)の棟札をもつ最古の遺構であり、また飯田市上飯田の風越山はかつて南信における白山信仰の拠点であった山で、山頂の奥社社殿には永正(えいしょう)六年(一五〇九)の墨書銘がある。東北信では応永(おうえい)三十二年(一四二五)の棟札銘のある飯山市桑名川の白山神社と、永享(えいきょう)十年(一四三八)銘の「四阿山御正体(あずまやさんみしょうたい)」が残る小県郡真田町真田の山家(やまが)神社が知られる。前者は名立山、後者は四阿山をそれぞれ加賀白山に見立てて信仰されたものだが、とくに後者の山家神社は古代の官社に由来する神社でありながら、中世後半以降は白山大権現とよばれ、別当の白山寺に管理されていた。

 現在の長野市内では、前述したように善光寺南大門付近に白山社が勧請されていたほか、高井郡の妙徳山がある時期に白山信仰の影響をうけていたらしいことは、かつて山頂妙徳社(白髭(しらひげ)大明神)の別当を勤めていた、山麓の越智山蓮台寺(若穂綿内)が、加賀白山と同じ泰澄による開山伝承を有していた(『越智山九品院蓮台寺縁起』)ことから推察される。白山信仰の伝来ルートとしては、木曾義仲が京都への進撃の途次、白山妙理権現に願文を捧げた話が『源平盛衰記(じょうすいき)』などにみえるように(第一章第一節)、主に北陸地方と信濃との人的交流が媒介となっていたとみることができるが、白山の登山口は加賀馬場(白山寺)のほか、越前馬場(平泉寺)と美濃馬場(長滝寺)があり、信濃における白山社の分布状況からすると、美濃ルートもあったようである。


写真50 越智山九品院蓮台寺 (若穂綿内)

 北信でもうひとつ、この時期に外からの信仰の影響をうけつつ、独自の山岳霊場の拠点となっていたものに、水内郡の霊仙寺山があった。この山は飯縄山と同じ尾根続きにありながら、それとは別系統の宗教者によって開かれた山岳霊場とみられるが、鎌倉時代ごろまでは、飯縄山と同様に戸隠山の影響下に属していたこともあって、史料上にもほとんどあらわれない。しかし、その東麓にあった霊仙寺跡(信濃町)には応永十一年(一四〇四)銘のある手水鉢(ちょうずばち)があるほか、奥宮・前宮や講堂などの諸堂の礎石が行場とともに整然と残されており、中世後期にはかなりの盛観を有していたことが察せられる。霊仙寺山に坐(い)ます神は五社大権現とされ、霊仙寺はその別当寺として機能していたが、これは同じく五社大権現の名で中世、北陸地方に大勢力を誇っていた能登・越中国境の霊場、石動山天平寺(いするぎさんてんぴょうじ)(現在は伊須流岐比古(いするぎひこ)神社。石川県鹿島郡鹿島町)の影響と推察される。分社の五社権現は近江から出羽にいたる日本海沿岸諸国に広く分布しているが、信濃では比較的少なく、石動信仰の拠点であったとみられる霊仙寺の存在は注目されよう。ちなみに、霊仙寺は永禄年間(一五五八~七〇)に兵乱を避けるために、島津氏が衆徒を長沼の宝珠院に仮住させたことによりしだいに衰え、明治初年廃寺となった。長野市箱清水花岡平にある、真言宗の霊山寺(れいさんじ)はその法灯を引く寺である。

 以上のように中世後半には、国外からさまざまな山岳信仰が北信に流入していたが、それとは逆に、北信から周辺諸国に信仰を発信していたのが戸隠山と飯縄山であった。とくに顕著なのは飯縄山の発展で、このころようやく戸隠顕光寺の支配から脱するとともに、衆徒が「飯縄の法(飯縄平座秘法とも)」とよばれた妖術(ようじゅつ)に近い独特の修法(しゅほう)を編みだして、それが戦勝を願う当時の武士たちの関心を引いたため、飯縄山は全国に知られる霊場となった。

 飯縄法をじっさいにおこなったとされる有名な人物では、室町幕府の管領(かんれい)を勤めた細川政元(一四六六~一五〇七)がおり(『足利季世記』)、関白九条稙通(たねみち)(一五〇九~九七)などの公卿(くぎょう)もこの法に凝ったと伝えられる(『戴恩記』)。戦国時代には飯縄権現は軍神として、さらに多くの武将たちの熱狂的な支持を得るにいたっているが、上杉謙信と武田信玄はその代表格であろう。とくに謙信の飯縄権現への信仰は際立っていて、愛用の兜(かぶと)の前立(まえだて)に飯縄権現像をあしらったり、印章の文字に使用したりした。なお、飯縄山衆徒の拠点は水内郡荒安(あらやす)村(芋井富田荒安)にあった里宮(現在は『延喜式』の皇足穂命(すめたるほのみこと)神社を名乗る)と、その脇にあった別当の本地院だが、かつてその本地仏であった応安(おうあん)二年(一三六九)銘の銅造地蔵菩薩半跏(はんか)像(戸隠村公明院所蔵)は、盛時をものがたる遺産とされているものである。

 飯縄も戸隠などと同様に、むろん神仏習合の様相を呈しており、形式的には天台宗の延暦寺に属していたことは、『飯縄法』『飯縄祭文(さいもん)』といった文献が叡山文庫に架蔵されていることからもうかがえる。しかし、遅くとも一四世紀中ごろまでには千日太夫と称する在俗の修験者が一山を統率し、各地で活動した飯縄使とよばれた行者たちを配下においた関係で、他の山岳霊場と比較すると当時から仏教色が薄かったのが特徴であった。