皆神山と在地修験

850 ~ 852

山岳信仰には国外の霊地から信濃に流入しその影響下にあったもの、あるいは逆に信濃の霊山が発信源で全国に広がったもの以外に、信仰圏が限られた地域内のみで、かつ独自の信仰内容を有するものもあった。埴科郡英田荘東条(あがたのしょうひがしじょう)内に位置した群神(むれかみ)山、すなわち現在の長野市松代町東条にある皆神(みなかみ)山は、そうした地域霊場の代表的なもののひとつであったといってよい。

 皆神山頂が東峰・中峰・西峰の三つからなるためか、いつのころか熊野三山信仰の影響をうけたらしく、明治の神仏分離のさいにも熊野出速雄(いずはやお)神社の社号で届けられ、現在もこの名称の神社(ただし、地元では皆神神社ともよぶ)が山頂に鎮座するが、もともとは出速雄神が坐(い)ます山として信仰されていたらしい。標高は七〇〇メートル足らずの山だが、円錐状をなす特異な山容のため、古くから信仰の対象となっていたと思われるものの、古代の状況はまったく不明であり、こんにちわずかに残された遺物から、一六世紀初頭の状況を知りうるにすぎない。それがかつての別当寺に安置されていた、木造の金剛界大日如来坐像、胎蔵界大日如来坐像(現在、弥勒(みろく)菩薩坐像と誤伝されている)および阿弥陀如来坐像の三体の本地仏と、それぞれの尊像の台座天板と像底面に記された墨書銘である。なお、金剛界大日如来像の台座表面には、本像に相当する種子(しゅじ)「バン」のかわりに、弥勒の種子「ユ」が記されていることから、当初は弥勒仏坐像をふくめた四体の仏像が作製されたが、その後、弥勒像のみが失われたために、その台座に胎蔵界大日如来像が安置されたものと推察されている(久保常晴『日本私年号の研究』)。阿弥陀如来・薬師如来・千手観音を本地とする紀伊熊野三山とは異なっており、この点からも、当時は熊野信仰の影響はうけておらず、地域独特の信仰内容を有していたことがうかがわれよう。


写真51 皆神山熊野出速雄神社 (松代町豊栄)

 これら三体の墨書銘は部分的に字句が異なるところもあるが、大意はほぼ同じで、そこにはだいたいつぎのような意味のことが述べられている。まず、これらの仏像は「群神山大日寺弥勒院」の「御本地」もしくは「御身体」として造立されたとあり、別当寺が当時このようによばれていたことがわかる。また、その造立目的は当地域に住む万民の安穏(あんのん)と快楽を祈願するとともに、当山繁昌(はんじょう)と家内安全ならびに息災円満を成就するためであった。施主は祝(ほうり)の民部大夫家吉(生年七二歳)と、その子の下野守(しもつけのかみ)(生年三七歳)と記されている。この家吉・下野守父子が神職家で、近世にはその子孫が小河原姓を名乗っているが、こうした点から当時の群神山は、飯縄山と同様に在俗の修験者によって統括され、しかもそれが世襲されていたことが知られるのである。なお、これらの仏像を造立したのは伊与法眼(いよほうげん)なる仏師であった。注目に値するのは造立年次を示す紀年銘で、いずれにも「弥勒二年丁卯(ひのとう)三月吉日」とある点であろう。弥勒はいわゆる私年号で、弥勒二年は全国的な事例から見ると、永正四年(一五〇七)にあたる場合と同五年(一五〇八)にあたる場合とがあるが、ここでは干支(えと)によって前者に該当することがわかる。

 私年号は朝廷の定めた公年号にたいして、民間で使われはじめたもので、すでに古代から使用例があるが、時期的にみると中世後半に多く出現し、しかも使用範囲は東国に限られている例が多い。この「弥勒」年号は、「福徳」(ほぼ延徳に相当)や「命禄(めいろく)」(元年は天文九年に相当)などとともに、使用例がとくに広範囲におよんでいた私年号だが、信濃ではこんにち確かめうるほとんど唯一の事例であるだけに貴重である。私年号を使用した意識や背景については、近年、京都にたいする東国の自立の意思の表現といった評価も出されているが、一般的には京都(じっさいには室町幕府)と鎌倉公方(くぼう)との争いによって改元ルートに乱れが生じたことや、とくに縁起のよい字を用いたものは地域の繁栄や安穏を願って使用したことなどが、主な理由として指摘されている。皆神山の場合には、当時の別当大日寺が院号を弥勒院と称していた点や、造立趣旨の内容と考えあわせ、多分に後者の事例にあてはまるのではないかと思われる。

 皆神山はその後も地域修験の霊場として順調に発展しており、戦国期には森長可(ながよし)・上杉景勝・須田満親・田丸直昌(ただまさ)といった、代々の川中島四郡の領主や海津城主から社領の安堵(あんど)をうけている。こうした領主の保護とともに、しだいに中央の宗教界の統制も強まり、慶長(けいちょう)十年(一六〇五)には本山(ほんざん)派の京都聖護院(しょうごいん)の配下となって、和合院の院号をあたえられた。以後、江戸幕府の宗教統制のもとで、佐久・小県両郡を除く信濃国内での先達(せんだつ)職に命じられて、本山派の山伏支配に乗りだしていくことになる(和合院文書)。