北信四郡の武士ははやくから越後や関東とのかかわりが強かったが、文明(ぶんめい)九年(一四七七)にはもともと信濃の守護だった小笠原氏に加えて、越後守護上杉房定(ふささだ)か信濃の守護をも兼ねるようになっていて(『信史』⑨)、ことに越後の政治・軍事状況が北信にも直接影響をおよぼすようになった。しかし、それより先、寛正(かんしょう)四年(一四六三)に越後から上杉右馬頭(うまのかみ)が高梨領の高橋(中野市)に出陣してきて放火してまわったのち、敗死するという事件がおきており、これは守護房定の送った軍勢とみられる。房定と高梨氏は敵対関係にあったことになる。そうした背景からか、高梨政盛は越後の守護代長尾能景(よしかげ)に娘を嫁がせ、そのあいだにできた娘が政頼(まさより)(政盛の孫)に嫁ぐというように、守護代と強い姻戚(いんせき)関係を結んだ。
このため、能景の子長尾為景(ためかげ)が上杉定実(さだざね)を守護に奉じて、永正(えいしょう)四年(一五〇七)守護の上杉房能(ふさよし)を攻め永正の乱をおこすと、高梨政盛は為景に応じて出兵し、房能を自害に追いこんだ。永正六年になると、房能の兄で関東管領の上杉顕定(あきさだ)が関東の軍勢を率いて守護定実、為景とその与党を攻撃する。信濃からは市川甲斐守(かいのかみ)・小笠原大膳大夫(だいぜんたいふ)・泉信濃介(すけ)・高梨摂津守らが、志久見(しくみ)口・白鳥口(栄村)から越後妻有(つまり)庄(新潟県十日町市付近)へ出陣した。しかし、かれら信州衆は敗れて、泉氏の領内の尾崎(おざき)庄(飯山市)まで退いたところをなおも顕定軍に攻められ敗走したという(『信史』⑩)。高梨政盛は翌永正七年五月に越後へ出陣したが、またも顕定軍に敗れた。しかし、六月十二日政盛は為景とともに越後の椎屋(しいや)(新潟県柏崎市椎谷)で顕定軍を破り、関東へ逃げようとした顕定を越後長森原(同南魚沼郡六日町)で討ちとった。七月一日付の為景の書状には、為景のために出陣した信州衆として、高梨・小笠原・泉・市川・島津の名がみえる(『信史』⑩)。
長尾為景と守護上杉定実の関係が悪化した永正十年、守護方から信州衆にたいし勧誘がなされると、為景は島津貞忠に守護方へ同心しないよう強く申し入れた。しかし、八月になると井上・海野・島津・栗田をはじめとする信州衆が、反為景方として関山口(同中頸城郡妙高村)から越後に攻め入る。他方で政盛の跡をついだ高梨澄頼(すみより)は、為景に応じて十月越後長峯原(同郡吉川町)に出陣した。この戦いは翌年正月に守護方の敗北で終わるが、島津・栗田氏らがここで反為景・高梨の行動をとったことは重要である。長尾と結びついて着実に勢力を増大していく高梨と島津らとのあいだで、対立関係が明確になっていることを示す。
これと関連する事件が、同じ永正十年七月に北信でおきていた。日時は不明であるが、平安時代末以来中野郷(中野市)の武士であった中野氏が高梨氏に滅ぼされた。高梨氏の勢力伸長を象徴する事件である。このため牢人(ろうにん)となった中野氏の旧臣たちが、村上氏と香坂(こうさか)氏の所領である小島田(おしまだ)(更北小島田・松代町小島田)に集まっていた。これと呼応してか、中野に残っていた牢人衆や被官が七月二十二日に決起したが、南口の通路をおさえられて散りぢりとなり、捕らえられてしまった。また、このとき中野氏の一族ですでに高梨の配下に入っていた夜交(よませ)氏と、高梨の一族の小島氏も中野牢人衆に呼応したが、草間大炊助(おおいのすけ)の武略で多くの被官が捕らえられ、二人が磔(はりつけ)になった。
これが長尾為景からの問い合わせにたいし、島津貞忠が報じた内容である。島津はこの事件に直接関与はしなかったようであるが、村上氏・香坂氏が中野牢人衆のうしろ盾(だて)となっていたことはまちがいない。夜交・小島氏がこれと同調しようとしたのは、北信の国人が反高梨に傾斜する情勢をふまえて、高梨からの自立をはかったためであろう。このことは高梨氏の家臣団編成の不安定さを示す。それは高梨氏だけの問題ではなく、村上氏や島津氏ら国人(こくじん)のだれもが直面していた問題であったが、とりわけ高梨の場合には、越後の戦争に長尾軍の重要な構成員としてひんぱんに長期の出陣を余儀なくされたことも、家臣の不満を増幅させる要因になったであろう。
永正十年の越後長尾・高梨対北信国人の対立関係はその後も長く続き、北信国人の中心に島津氏がいた。越中侵攻を考えるようになった長尾為景は、出陣中に背後をおびやかされることのないよう、島津との和睦をはかる。永正十六年二月二十六日、島津貞忠の弟治部少輔(じぶしょうゆう)元忠が越後へ赴き和議をととのえた。為景は高梨の同意をとりつけている。ところが、高梨政頼は、いつだれによって信濃から追われたか不明だが、大永(だいえい)四年(一五二四)の六月ころか、為景の支援をうけてようやく帰国できたという情報を京都の公家三条西実隆(さんじょうにしさねたか)が日記に記している。そのような事態は、北信国人と高梨との対立以外には考えられまい。村上氏を除けば、北信国人のなかでは高梨氏の勢力はもっとも大きく、現小布施町から中野市・山ノ内町・木島平村・飯山市と、千曲川東岸地域を一円的に支配下に入れ、飯山市域では千曲川西岸の泉衆まで勢力下に入れるまでになった。また、越後国内でも一七ヵ所の所領をもっていた。しかし、右の事件に象徴されるように、支配は安定したものではなかった。