前章でみたとおり、一五世紀後半には、埴科郡以北の千曲川流域では、犀川との合流点あたりまでの両岸がほぼ村上氏の勢力下に組みこまれるようになっていた。さらに文明年間(一四六九~八七)には犀川の北の市村(芹田北市・南市)と風間(大豆島風間)に村上氏が進出し、そこから浅川のあいだには千曲川東岸を本拠とした井上氏、須田氏、高梨氏の所領と、長沼からその北の鳥居川流域に勢力をもった島津氏の所領が点在し、北信国人勢力の競合地域となっていた。また、村上氏は南の小県郡へも侵攻し、応仁(おうにん)元年(一四六七)から二年に海野(うんの)氏と交戦している(『諏訪御符礼之古書(みふれいのこしょ)』)から、千曲川沿いに北にも南にも積極的に勢力拡大をはかっていたようである。
一六世紀に入って北信の諸将が越後の政治・軍事状況の影響を強くうけたのにたいし、村上氏は越後勢と直接かかわりをもつよりは、北信の反高梨方の黒幕として動いていたように思われる。このころの信濃の国人は、それぞれに自分の領内の家臣や一族らにたいする支配・統制の強化を模索しつつ、近隣同士で領土拡張戦を繰りかえしていた。そのなかで高梨氏は長尾という国外の有力者の力を頼んで勢力拡大に成功し、佐久郡の伴野(ともの)貞慶は、大永七年甲斐の武田信虎を自分の戦争に引きいれている。それはたしかに群立する国人のなかからいちはやく抜けでる方策として、また存亡の危機にあっては救急措置として有効ではあった。しかし、国外の勢力をよびこむことにもなったのである。
武田信虎は享禄(きょうろく)元年(一五二八)八月、国境を越えて信州諏訪郡に侵攻し、諏訪上社大祝(おおほうり)諏訪頼満(よりみつ)と戦った。これ以後信虎は信州進軍を繰りかえすことになるが、『勝山記(かつやまき)』は、この出陣が信虎の「諏訪殿」への合力(ごうりき)としておこなわれたと記している。この「諏訪殿」は、四年前に頼満に追われて信虎を頼った諏訪下社の金刺(かなさし)昌春とみられている(『県史通史』③)。武田の信州侵攻は、存亡の危機におちいった金刺氏への支援として開始されたのである。天文(てんぶん)四年(一五三五)諏訪頼満は信虎と和睦し、天文九、十年には信虎の同盟軍としてともに佐久・小県郡に侵攻し、所領を拡大した。しかし、けっきょく天文十一年に武田晴信によって滅ぼされるのである。
村上義清も天文十年、武田・諏訪軍と連合して小県郡に侵攻した。三軍の猛攻をうけて、禰津(ねつ)氏・矢沢氏・海野氏らはあるいは降伏し、あるいは上野(こうずけ)国へと逃れた。これによって、義清はそれまでにもっていた塩田荘(上田市)に加えて、小県郡に新たな所領を獲得し、宿願を達成した。しかし、晴信が天文十六年に佐久郡をひとまず平定すると、義清はこれとの直接対決に追いこまれたのである。
小県郡平定をめざす晴信に立ち向かった義清は、天文十七年二月上田原(上田市)に出陣した武田軍を攻めて大いに打ち破り、武田重臣の板垣信方(のぶかた)・甘利虎泰ら多数を戦死させた。これに乗じて義清は府中(松本市)の小笠原長清や大町の仁科道外らと諏訪郡に攻めこむなど、武田の支配地に攻勢をかけたが、一時的なものに終わった。天文十九年にかけて望月・依田・芦田(あしだ)など佐久郡北西部から小県郡にかけての武士、山家(やまべ)・赤沢・坂西(ばんざい)など府中近辺の武士がつぎつぎと武田にくだり、仁科道外も出仕した。長時は府中を失い、義清は孤立する。
晴信はここで一気に義清をたたこうとして、天文十九年八月、義清の属城小県郡戸石(といし)城(上田市)に兵をすすめた。ここにいたって川中島地方の武士ははげしく動揺する。すでに前年の九月に平林氏が武田に出仕していたが、十九年九月一日村上氏一族の清野氏(松代町)が出仕し、十九日には須田新左衛門(須坂市)が晴信への忠信を誓って起請文(きしょうもん)を提出した。しかし、村上軍は九月九日の合戦で大勝し、武田軍の討ち死には一〇〇〇人ばかり(『勝山記』)とも、五〇〇〇人ばかり(『厳助(ごんじょ)往年記』)ともいわれた。ひとまず危急を脱した義清は、武田軍にあくまで対抗するつもりで、長年敵対をつづけた高梨とのあいだで和議をすすめ、互いに中途まで出かけて対面し、和睦を実現した。その足で九月二十二日から二十八日にかけて雨宮氏とともに寺尾氏のこもる寺尾城(松代町)を攻めると、武田方の真田幸綱(幸隆とも)が寺尾の救援に出陣してくる。平林・清野の居住地は地蔵峠越えの道で真田町と結ばれ、須坂も大笹街道で結ばれている。村上の背後からやすやすと真田の調略が川中島地方へとおよんでいたのである。