葛尾城自落

859 ~ 862

小県郡の真田幸綱が武田晴信に出仕した年次は不明である。『高白斎記(こうはくさいき)』に、天文十八年三月十四日、晴信が望月源三郎に七〇〇貫文を宛行(あてが)うことを記した朱印状を真田に渡したとみえるのが、確かな史料の初見である。源三郎は幸綱の勧誘をうけて武田に属したことを意味し、幸綱の出仕は天文十七年以前となる。幸綱は戸石城合戦の直前の天文十九年七月二日、晴信から年来の忠信を賞され、小県郡を平定したら、諏訪形(上田市)と横田氏旧領の上条(同)と合わせて一〇〇〇貫文の所領の宛行いを約束された。

 幸綱は天文二十年五月二十六日、戸石城を攻略した。真田氏発展の起点となったともいえる大きな戦功であり、逆に村上氏にはきわめてきびしい敗退であった。十一月二十二日義清配下の東条(ひがしじょう)氏(松代町)が、どこかの城の在番中に飯富(おふ)稲蔵に討たれている。

 天文二十二年はじめ、高梨政頼が岩井民部大輔(みんぶたいふ)や若党らをつれて上洛(じょうらく)し、閏(うるう)正月二十七日に浄土真宗(一向宗)の石山本願寺(大阪府)を訪れている。武田軍の攻勢がつづくなかでなぜ上洛したのか、本願寺証如(しょうにょ)の側とどのようなやりとりがなされたのかは不明であるが、単なる物見の旅行とは考えられない。とくに北信で大きな勢力をもっていた一向宗寺院やその門徒を、武田との戦争に動員するねらいがあったのかどうか検討の余地があろう。


写真3 戸石城跡遠景 (真田氏本城より)
(上田市伊勢山)

 晴信は天文二十二年の年初から村上攻撃を計画していた。三月二十三日出馬、二十九日深志(ふかし)城(松本市)をたって北上し、苅屋原(かりやはら)城(東筑摩郡四賀村)を落とした。さらに武田軍が塔ノ原城(同郡明科町)を落とし、会田(あいだ)の虚空蔵(こくぞう)山(四賀村)に放火して坂木(坂城町)に迫った。すでにほぼ掌握した佐久・小県から北上するのでなく、未掌握の筑摩郡の城を落として、補給路も退路も断つ戦略をとり、その一環として、村上の一族屋代政国(更埴市)にも恩賞を約束して服属をうながした。四月五日、政国と塩崎氏(篠ノ井)が武田に寝返って、桑原の地(更埴市)と塩崎城をおさえていることを注進してきた。六日に先発隊が義清の葛尾(かつらお)城(坂城町)に向かうと、九日午前八時ころ葛尾城は自落(じらく)した。すなわち、義清は戦わずして城から脱出したのである。その日、政国と塩崎両氏が苅屋原にいた晴信に出仕した。十五日には青柳(あおやぎ)城(東筑摩郡坂北村)に移った晴信のもとに、石川氏(篠ノ井)と大須賀久兵衛(おおすがきゅうべえ)も出仕した。久兵衛は義清の家臣であったが、武田方に寝返って更級郡狐落(こらく)(きつねおとし)城(上山田町)を攻め、城将の小島兵庫助ら三人を討ちとっていた。十六日には香坂氏、十八日には室賀(むろが)氏が出仕した。村々をおさえる面の支配よりもまず、武士の服属という形の点をいくつもおさえることによって、武田の勢力は埴科郡の南半と更級郡の南部・西部に入りこんだことになろう。

 四月十六日、屋代政国は恩賞として雨宮(あめのみや)(更埴市)を得た(屋代文書)。「先度雨宮の儀、判形(はんぎょう)を進(まいら)せ候き」とあるから、晴信が政国を味方につけるにあたって、雨宮の宛行(あてがい)を約束した文書を先に出していて、十六日に正式に宛行ったのである。六月二十一日には清野左近太夫と長野刑部(ぎょうぶ)が晴信の名前から「信」の一字をもらった。これも恩賞の一種である。晴信は苅屋原城に今福石見守(いわみのかみ)を入れ、青柳城も弟武田信繁(のぶしげ)によって築城工事が開始された。麻績(おみ)・青柳と大岡(大岡村)の支配について、四月二十五日に小川(小川村)の大日方(おびなた)入道がやってきて、大岡氏・屋代氏などと何ごとかを相談している。相談内容は不明だが、三者がそれらの地になんらかの権限をもっていたにちがいない。


写真4 葛尾城跡遠景 (坂城町)