最初の川中島の合戦

862 ~ 865

天文二十二年四月九日に葛尾城を退いた村上義清はおそらく北に向かって逃げたのであろう。すぐに体勢をととのえて反撃に出た。村上方が五〇〇〇人ほどで攻めてきたという情報が入って、四月二十二日、武田晴信軍は八幡(やわた)(更埴市)に向かって出撃したが敗れた。村上勢は二十三日葛尾城を攻めて武田の城将於曾(おそ)源八郎を討ち、城を奪いかえした。これにたいし晴信は反撃することなく甲府に帰陣した。将軍足利義輝の使者を迎えて嫡子(ちゃくし)太郎が将軍の名前の一字「義」をもらうことになっていたからであろう。太郎は義信と名乗った。

 その儀が終わると晴信はすぐに出陣した。七月二十五日に甲府をたって、塩田城を攻めるためにこんどは佐久郡へ入った。まだ独立を保っていた小県郡和田(和田村)・高鳥屋(たかとや)(武石村)などの城主・籠城兵を攻めて皆殺しにし塩田城に迫ると、八月五日義清は塩田城から逃げ、周囲の城砦(じょうさい)の兵も逃亡した。これによって小県郡の平定がほぼ終わったので、十日に晴信は真田幸綱に、子の昌幸を人質として出させるのを条件に秋和(あきわ)(上田市)三五〇貫文を宛行った。つづいて室賀・小泉・浦野・禰津宮内少輔らにも小県郡で所領を宛行い、禰津某に村上氏の支配下にあった村上庄内(坂城町)で一〇〇〇貫文を、寿量軒に福井(戸倉町)四〇〇貫文を宛行った。埴科郡境のすぐ南の室賀本城に飯富(おふ)虎昌を入れて村上氏にたいする備えとした。こうして小県郡と村上氏の本拠地域にたいする支配体制が少しずつ整えられていった。


写真5 村上義清の墓
(坂城町)

 安曇郡の仁科領(大町市)から犀川の支流土尻川(どじりがわ)沿いに東進して善光寺平に入る道は、水内郡との郡境の千見(せんみ)城(北安曇郡美麻村)を越え、水内郡小川にいたる。この水内郡の出入り口の要衝小川の辺をおさえていたのが大日方美作(みまさか)入道と上総介(かずさのすけ)の父子である。かれらはおそらく仁科道外が武田に出仕した影響をうけて、まもなく武田に属することになったのであろう。天文二十二年とみられる八月九日、晴信から両人にたいし五ヵ条の条目が出された(『信史』⑪)。第一条では「飯田・雨降の間の事、仁科庄(しょう)(匠)作(さく)へ種々異見を加え相渡し候、奥郡本意においては何方(いずかた)へなりとも替地を出すべきの事」とあり、大日方氏が服属の条件として、安曇郡飯田(白馬村)や雨降の地を恩賞としてあたえるよう武田に要求していたことがわかる。小川から安曇郡に出た道が、府中(松本市)と越後を南北に結ぶ千国(ちくに)街道と合流するところである。大日方氏は新しい支配者と積極的に結びついて、流通・運輸の利権を拡大しようとはかっていたにちがいない。仁科匠作盛康のねらいも同じで、晴信はこの時点では仁科の利用価値を重視したのである。

 第二条・三条では、春日越前守ら春日一族、葛山(かつらやま)(芋井)の落合半六郎、東条左衛門佐(さえもんのすけ)らの勧誘を依頼している。かれらはこの時点でまだ武田に属していないことがわかる。第四条・五条では小川へ村上が出兵したら援軍を送ること、その口の備えは両人に相談して決めることを約束した。大日方氏は川中島への西の前線基地にあったのである。

 さて、四月二十二日に村上義清が反撃に出たときの軍勢を武田方は五〇〇〇人ほどとみたが、実数はもっと少なかったであろう。もちろん村上氏の手勢(てぜい)だけでなく、同盟した高梨氏をはじめとする四郡の国人(こくじん)が兵を出したであろうが、越後から援軍がきたことを示す史料はない。

 これにたいし、八月はじめにふたたび義清か塩田城・葛尾城を攻められて敗走すると、同月下旬越後勢が出陣してきた。村上・高梨・井上・須田・島津・栗田氏らが長尾景虎(かげとら)(為景の子。のちに上杉政虎、輝虎、謙信と名を改める)に救援を求めたからである。武田軍が北進すれば、埴科・更級の南の郡境でこれを食いとめる城をかれらはもうもってはいなかった。武田軍が川中島へなだれこむのは時間の問題であり、かれらの力だけでは各人の城をもちこたえることは不可能であった。いっぽう、景虎にとっても、もし北信四郡が武田に属せば、越後国境がおびやかされるという危機感が強まっていた。いまだ国内を十分に掌握しえていない景虎には、自力で信越国境を守る力はなかった。景虎にとって、かれら国人が武田に属してしまうことはなんとしても回避し、国境の守り手として位置づけたいという思いがあったであろう。

 こうして第一次の川中島の合戦が始まった。越後勢は犀川を越えて南下し、布施(篠ノ井)で大須賀久兵衛尉らと戦い、九月一日には八幡(やわた)で武田軍を破り、新砥(あらと)(荒砥)城(上山田町)に迫って城兵を追った。この城には、八月八日に雨宮のかわりに新砥を宛行われたばかりの屋代政国がいたはずで、戦わずして逃亡した。三日には筑摩郡に入って青柳城に放火、四日には会田の虚空蔵山(こくぞうざん)城を落とした。十七日には坂本の南条に放火している。これらは越後勢と村上ら北信の国人勢とがいっしょにおこなったものであろうが、筑摩郡や坂木に軍を展開しているのは、川中島地方の南から敵を追うとともに、さらにその南の麻績・青柳から坂木のラインに防衛戦を設定するねらいがあったことを意味しよう。

 これにたいし晴信は塩田城にあって、全面的な衝突を避けた。武田方では九月十三日に麻績と新砥に忍(しのび)を入れて放火したり、敵の首を取って高名をあげたものもいるが、大規模な反撃はおこなわなかった。二十日に越後勢が引き上げると、晴信も十月七日に塩田城をたって深志城へと陣を引いた。このとき、武田勢に討たれたもののなかに禰津治部少輔・奥村大蔵少輔がいて、禰津氏のなかに武田にしたがうことをいさぎよしとしないものがいたことがうかがえる。同氏ばかりでなく、国人の一族が同様に分裂した例は多い。

 長尾景虎は川中島から撤退すると、はじめて上洛した。参内(さんだい)して後奈良天皇から越後と信濃の敵を「治罰(じばつ)」したことを賞する綸旨(りんじ)をあたえられ、大いに面目をほどこした。信濃出兵の大義名分を得たと思ったことであろう。さらに本願寺証如に太刀(たち)・馬・銭一〇貫文を贈って友好関係を結んだ。越後と畿内(きない)を結ぶ北陸道は、加賀国(石川県)の一向一揆をはじめ一向宗門徒の協力なくしては通行できなかったからである。景虎の上洛にあたっては、笠原本誓寺(ほんせいじ)(中野市)の超賢(ちょうけん)が門徒に交渉して通路を確保している。景虎はまた、堺(大阪府堺市)を訪れている。畿内の高級手工業品や鉄砲などの軍需品、貿易品などを調達する足がかりをつくるためであろう。こうして年末ころに帰国した。