二百日間の長陣

865 ~ 868

天文(てんぶん)二十二年(一五五三)の村上義清の敗走は、北信の武士たちに、武田に出仕(しゅっし)するのか抵抗するのか、運命の決断を迫った。長野市と更埴市の境目、すなわち川中島地方への南の出入り口にいた屋代氏、塩崎氏、清野氏はすでに村上氏を見限り、武田晴信に通じていた。村上氏を失えば、もはや千曲川沿いを北進する武田軍に抵抗できないかれらの軍事的な立場を示している。と同時に、かれらは村上氏から独立して本領を維持し、恩賞を得て勢力を拡大する道を選択したとみるべきであろう。だが、かれらは上杉軍の反撃にあって、少なくとも九月の時点では本領から退かざるをえなかった。上杉勢の撤退後、武田方がどこまで北進できたかは分からないが、東条尼巌(ひがしじょうあまかざり)城(松代町)は上杉方が押さえていた。


写真6 雨飾(尼巌)城跡
(松代町東条)

 翌天文二十三年春、小川城の大日方入道や同主税助(ちからのすけ)らは、土尻川の上流にある千見(せんみ)城を攻め落とし晴信の感状をもらった。千見は水内郡と安曇郡の郡境近くにあって、川の両岸に山が迫る要衝の地である。上杉軍が西から川中島地方に入ってくる場合に備える場である。六月二十日主税助は庄内主計(かずえ)分三〇貫余を宛行われた。晴信は伊那郡に出兵した。降伏した知久(ちく)頼元父子らは捕らえられて甲斐都留(つる)郡へ送られ、翌年殺された。諏訪氏と同じ運命をたどったことになる。八月には、小諸をはじめ佐久郡でなお武田に抵抗していた勢力の城が落とされた。残るは北信である。しかし、小田原の北条氏に娘を嫁がせることになっていた晴信は、大日方主税助に来春早々の北信出馬を約してひとまず帰国した。

 弘治(こうじ)元年(一五五五)四月、晴信は佐野山(更埴市)に諏訪郡の内田監物(けんもつ)らを入れ、やがて北信に出兵する。村上・高梨らの要請をうけた長尾景虎が、千曲川沿いに南進してきて善光寺の東に接する横山城に陣を張る。これにたいし、武田方に通じた善光寺の堂主栗田氏は旭山の城(安茂里)に入り、晴信は犀川のすぐ南の大塚(更北青木島町、更北中学校の辺)に陣をとる。晴信は旭山城に兵三〇〇〇、弓八〇〇張、鉄砲三〇〇挺(ちょう)を入れて栗田氏を支援したという(『勝山記』)。


写真7 大堀館跡 (更北青木島町大塚)

 弘治元年七月十九日、両軍は川中島で戦った。同日付で出された晴信の感状は一〇通にのぼり、いずれも「更科(級)郡川中島において一戦を遂ぐるの時」頸(くび)一つを討ちとったとある。大須賀久兵衛や内田監物らが活躍したほか、高梨の家臣だった小島修理亮(しゅりのすけ)も武田軍に属して頸一つをとっている(『信史』⑫)。上杉方が犀川を越えて武田方へ攻めこんだとみられるが、このときには景虎の感状が出されていないから、上杉方は多くの戦死者を出して逃げ帰ったのであろう。晴信は、今川義元の援軍を得たほか、小山田信茂を佐久郡に入れるなどして陣容を強化し、一歩も引かない構えを示した。景虎の感状はただ一通、八月二十二日付で出されているから、このときにも戦いがあったのだろうが、大規模な戦闘はないまま膠着(こうちゃく)状態におちいっていた。早く撤退したほうが負けである。なぜなら、残ったほうが善光寺平全体をあっという間に掌握しかねない形勢だったからである。上杉方は旭山城へのおさえの城として新しい城砦(じょうさい)を築いたり、厭戦(えんせん)気分の広がった陣中を引きしめるため、諸将から誓詞(せいし)(起請文(きしょうもん)、誓約書のこと)をとったりした。

 五ヵ条からなる誓詞には、景虎が何ヵ年にわたって張陣しようとも、命令どおりに在陣して走りまわること、陣中で喧嘩(けんか)や道にはずれた行いをした被官はすぐ成敗(せいばい)すること、敵への備えについて考えがあれば思うところをすべて述べること、兵を動かすときは景虎のはからいのごとくに走りまわること、いったん撤退してふたたび出陣する場合も、たとえ一騎であっても参陣して走りまわること、と記されていた。帰国を望むものが増え、軍の規律も乱れているようすがうかがえる。これは武田方でも同様であっただろう。十月二十一日夜には大須賀久兵衛の守る城で城中のものが上杉方と通じて小屋に火をつけるという事件が発生している。ついに今川義元が和議の仲介(ちゅうかい)に入り、閏(うるう)十月十五日に両軍は撤退した。

 二〇〇日におよぶ出陣で、「人馬のつかれ申すばかりなく候」(『勝山記』)とは両軍のだれもの実感であっただろう。翌弘治二年の書状で景虎は、晴信のほうが困って和議を望み今川義元に仲介を頼んだので、それに応じたと強がりをいっているが、和議は双方が同等の痛みを分かちあう形をとって、対陣以前の状態にもどす条件で成立し、それを文書にして、誓詞も交換して決着をみたのであろう。旭山城は完全に破却(はきゃく)したというから、それにたいして築かれた上杉方の新しい城砦も破却されたはずである。


写真8 旭山城跡 (城山公園より)