信越国境の戦い

872 ~ 876

葛山落城の報は、ただちに長尾景虎のもとに届けられた。落城翌日の弘治三年二月十六日に景虎は阿賀北(あがきた)(新潟県の阿賀野川以北)の色部勝長に出陣を要請してつぎのように述べている。「今度、晴信出張し、落合方の家中引き破り候故、葛山の地落居す(落城した)。これにより島津方も大蔵の地へまずもって相移られ候」。長沼城にいたとみられる島津忠直はなすすべもなく、北の大蔵城(豊野町大倉)に逃げこんだ。おそらくこの島津から落城が報じられたのであろう。高梨が救援に動いた形跡はない。このような形勢をみて、高梨領内でも武田方につくものが出た。葛山城が落ちるか落ちないかという時点で、高梨一族の山田(原)左京亮(さきょうのすけ)は降参を申しでて、自分の領内のものの助命を保証してもらった。落城直後の十七日付で本領五〇〇貫文の地を安堵(あんど)してもらうとともに、新恩として大熊郷(中野市)七〇〇貫文を宛行(あてが)われた。いずれも、もと高梨氏の領地であり、その配下にあった山田氏が武田につくことで主家にとってかわろうとした、その願いがうけいれられたのである。敵地のまっただ中にあるものの服属(ふくぞく)がいかに歓迎されるものかを示す破格の扱いである。同じころ、千曲川をはさんで飯山と向かいあう木島(木島平村・飯山市木島)の木島出雲守も武田に通じた。これも高梨家臣であった。飯縄(いいずな)山修験の千日(せんにち)も武田に属し、三月二十八日付で安堵をうけた。

 景虎は葛山落城の報に危機感をつのらせた。「信州の味方中滅亡の上は、当国の備え安からず候」といって、ただちに出陣の触れを出した。しかし、一ヵ月だっても越後国人(こくじん)らは出陣せず、先陣が三月三十一日にようやく信越国境に到達しただけであった。その報は木島氏・原氏によってただちに晴信に届けられ、晴信も出陣体勢に入った。高梨政頼は、もし景虎の出馬が遅れるなら、飯山城を放棄せざるをえないといって、出馬を急ぐよう催促をつづけていた。景虎はやむなく、無勢のまま三月二十四日に出陣した。途中、武田方がおさえていた山田の要害(高山村。山田左京亮の城)と福島(ふくじま)城(須坂市)を攻略し、逃げていたものたちを帰村させ、四月二十一日に善光寺に着陣した。二十五日には敵陣や根小屋に放火し、旭山城を再興してここに本陣をおいた。景虎の出陣に応じて、島津忠直もようやく攻勢に転じ、戸屋(とや)城(七二会)に加勢をいれたり、鬼無里(きなさ)(鬼無里村)に夜襲をかけたりしている。


写真12 春日氏の居城と伝える戸屋城跡
(七二会)

 景虎は五月十日に小菅(こすげ)(飯山市)の元隆寺に戦勝を祈願し、なおも晴信との決戦を望んで、十二日に香坂(こうさか)(信州新町)を攻めて近辺に放火、十三日には坂木岩鼻(坂城町)まで攻めこんだ。しかし、武田方は戦闘を避けて退くばかりであった。その後飯山方面に退いた景虎は、武田方の市川藤若を攻めるため、野沢温泉に兵をすすめた。藤若は晴信に後詰(ごづめ)の兵を中野に向けて出してくれるよう飛脚をもって要請した。晴信が倉賀野(くらがの)(群馬県高崎市)の上原与三左衛門尉(よさざえもんのじょう)と塩田在城の足軽ら五百余人を真田へ派遣したところで、景虎が退散したとの報が入った。晴信は藤若にたいし、今後緊急事態が生じた場合には、晴信まで届けずに塩田在城の兵を出陣させるよう城将の飯富(おふ)虎昌に指示したから安心するようにと、支援を約束し、使者山本管助(勘介)を派遣した。確実な史料に山本管助(勘介)が登場するのはこれのみである。


写真13 武田晴信書状
山本管助(勘介)の実在が確かめられる唯一の史料 (北海道釧路市市川良一蔵)

 八月下旬、水内郡上野原で戦闘があった。景虎方が三通の感状を出しているが、武田方には何もなく、おそらく小規模な衝突だったのだろう。この上野原の地は若槻のあたりとみられているが、けっきょく大勢に影響はなく、まもなく越後勢は撤退したようである。これが第三回川中島合戦であった。景虎は五ヵ月余りの出陣であったにもかかわらず、武田の北進を押しもどすことはできなかった。国境防衛の最大拠点である飯山城でさえ孤立の様相を示し、市川・山田・木島氏らが武田に通じたままでこの地域にとどまっているように、城の近隣地域を一円に掌握していたわけではなかった。武田は七月五日に小谷(おたり)城(北安曇郡小谷村)を落として越後国境に迫り、春日山城の背後をおびやかした。こうして信濃国はほぼ武田の手に属した。


写真14 春日山城本丸跡 (新潟県上越市)

 この実績をもって晴信は、将軍義輝に信濃国守護職への補任(ぶにん)を迫った。永禄元年(一五五八)晴信は、将軍の停戦命令にしたがう意をあらわして守護に任じられ、景虎の信濃出兵を将軍の意向にそむく非法行為と非難する論拠(ろんきょ)を得た。弘治三年から永禄元年にかけて信玄が相当の期間「信府(しんぷ)」(松本市)に滞在し深志城の修築に力を注いだのは、単なる軍事的な拠点づくりにとどまらず、信濃守護として信濃府中の掌握を内外に示すねらいからであった。それでも上杉方は北信で小規模な軍事行動や放火に出たらしく、晴信はそれにたいする報復という理由で越後へ何度か兵を出したから、北信にはなお平和は実現しなかった。永禄元年四月、晴信は柏鉢(かしわばち)城(中条村)・東条城(松代町)・大岡城(大岡村)などについて、敵が出陣してきたときに籠城するべきものを指名した。柏鉢城には室住(むろずみ)豊後守・箕輪(みのわ)衆・水上六郎兵衛・坂西(ばんざい)が、東条城には真田幸綱・小山田備中守昌行・佐久郡北方(きたがた)衆が、大岡城には市川梅隠斎(等長)・青柳が籠城することになっていた。善光寺平の武士の名はみえない。

 こうして信濃出兵の正当性を失った景虎は、上洛(じょうらく)して将軍に忠節を誓い、晴信の越後侵入を停戦命令違反として、新たな正当性を将軍から得る道を模索することになった。