永禄四年八幡原の激突

876 ~ 880

永禄二年(一五五九)四月上洛した長尾景虎は、将軍足利義輝から関東出兵と信濃出兵を正当化する文書を発給してもらって、所期の目的を達成した。関東出兵は、北条氏に追われて越後に逃れてきた関東管領(かんれい)の上杉憲政(のりまさ)を関東に復帰させることを名目として、景虎が越後・関東の武将に号令して関東で軍事行動を展開しようとするものであった。信濃出兵については、つぎのような文書が将軍から景虎あてに出された。

甲・越一和の事、晴信にたいし度々下知を加うといえども同心なく、結句(けっく)分国(越後)境目に至って乱入の由、是非なく候。しかれば、信濃国の諸侍の事、弓矢半ばの由に候間、始末、景虎意見を加うべきの段、肝要に候。

 まず、将軍の和睦命令に武田晴信が同心せず、越後に乱入したのはけしからぬことと晴信を非難している。ついで、信濃の武士が戦争中だということなので、景虎が意見を加えて戦争に決着をつけよといっている。これは国人らの本領復帰が出兵の目的であるとする景虎の主張を正当として、その線での停戦を命ずるものであり、晴信の戦争と国人の放逐(ほうちく)を非とすることになる。


写真15 鶴岡八幡宮 (神奈川県鎌倉市)

 こうして帰国した景虎は、翌永禄三年秋に上杉憲政をともなって関東に出陣、越年して、永禄四年春数万の関東勢を指揮して小田原城を攻めたが落とせず、兵を返して、鎌倉の鶴岡八幡宮で憲政から上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職をゆずられて上杉政虎と名乗った。四年六月に帰国すると、八月には四度目の川中島出兵をする。この出兵も将軍のお墨付(すみつき)をよりどころとしていたから、意気ごみも強く、期するところも大であった。したがって軍勢もこれまでにない人数であったにちがいない。たいする武田信玄(信玄という名乗りは永禄二年五月が初見)もまたそれを予想して、みずから川中島に入った。

 両軍は九月十日に対戦した。政虎が九月十三日付でたくさんの感状を出しているので、その一例を掲げよう。

去る十日信州河中島において、武田晴信にたいし一戦を遂ぐるの刻(きざみ)、粉骨(ふんこつ)比類なく候。ことに親類・被官人(ひかんにん)・手飼(てがい)の者、余多(あまた)これを討たせ、稼ぎを励まるるにより、凶徒(きょうと)数千騎討ち捕り、大利を得候こと、年来の本望を達す。また面々の名誉、この忠功、政虎一世中忘失すべからず候。いよいよ相嗜(あいたしな)まれ、忠節を抽(ぬき)んじらるること肝要に候。恐々謹言。

九月十三日       政虎(花押)

色部修理(勝長)進殿

 政虎は敵を数千騎討ち取り大勝利をして、本望を達したと書いている。そして、政虎を頼って京都からやってきて、当時関東にいた前関白の近衛前嗣(このえさきつぐ)にも大勝利だったと知らせたらしい。前嗣が十月五日に出した返書には、

今度信州表において晴信にたいし一戦を遂げ、大利を得られ、八千余騎討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候といえども、自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(ぴき)黒毛差し越し候。(下略)

とみえる。ここに記された戦いの情報は、政虎側から提供されたものである。感状のなかの数千騎が、前嗣にたいしては八千余騎になっているから、戦争を知らない公家に大法螺(おおぼら)を吹いたのであろう。もうひとつ注目されるのは、政虎自身が「太刀討ち」すなわち太刀を抜いて戦ったといっていることである。ほかに確かな史料はないが、おそらくそのような事実はあったのであろう。しかし、だれと戦ったかは書いていない。もし、信玄と直接太刀打ちにおよんだのであれば、当然そのような記述になるであろう。両軍の最高指揮者同士が切りあうなどということはほとんどありえないことであり、前代未聞ともいうべきことだから、特筆されないはずがない。すなわち、信玄と政虎との一騎打ちは、確かな史料には記されていないことを確認しておきたい。

 さて、政虎が大形(おおぎょう)な感状を出し、大法螺を吹いたのにたいし、信玄の発給文書は少ない。九月二十六日に上野左近丞(さこんのじょう)にたいし「今度川中島の合戦において、頸(くび)数輩(はい)討ち捕るの段、神妙に候。これにより鎧(よろい)壱両(領)遣わし候。なお追って取り計らうべきものなり」と恩賞を約束している。このころ感状を出し、当座の恩賞として鎧などがあたえられたのであろう。十月には恩賞があたえられたらしく、あて名がなく、土屋豊前守あてと伝える信玄の文書の写しが伝わる(『信史』⑫)。

信州河中島の合戦において、忠信を抽(ぬき)んじ神妙の働き、本意に任すの条、同国水内郡和田・長池弐百貫の地当(宛)行うものなり。よって件(くだん)の如し。

 和田(古牧東和田・西和田)・長池(朝陽北長池・古牧南長池)ともに市内の土地である。


写真16 武田典厩信繁の墓 (篠ノ井西寺尾)

 『勝山記』はこの合戦について、「景虎悉(ことごと)く人数打死いたされ申候。甲州は、晴信御舎弟典厩(てんきゅう)(信繁)の打死にて御座候」と記す。政虎方が多くの戦死者を出し、武田方では弟の信繁が戦死したとのみ伝え、勝敗には言及していない。信繁の戦死は事実である。もう一点、信玄が京都の清水寺成就院(じょうじゅいん)に永禄四年十月晦日(みそか)に出した文書がある。そのなかで川中島の合戦についてつぎのように述べている(『信史』⑫)。

今度越後衆信州に至って出張候のところ、乗り向かい一戦を遂げ勝利を得、敵三千余人討ち捕り候。誠に衆怨(しゅうおん)悉く退散眼前に候か。

 信玄もまた合戦に勝利したといい、敵三千余人を討ち捕ったと報じている。そして、敵が今も「市川・野尻両城」に立てこもっているので、それらが退散したらさらに寺領を寄進すると書いている。

 以上が、当事者や当時の人びとが記した合戦についての記述である。そこにも虚構や誇張があって、真実はわずかである。あまりにも多くの人が川中島で血を流し、無念の死をとげたことは確かだが、軍勢の人数や武器、隊の編成はどうだったか、戦いがいつ始まり、どのような経過をたどったかといった、私たちが知りたい情報を記した当時の史料はない。なくなったのではなく、記録されなかったのである。そうしたことは時間がたってから物語や家譜(かふ)として記される。ことに江戸時代には数多くの戦記物がおもしろおかしく書かれ語られた。私たちが知っている川中島の合戦は物語によって作られたイメージである。そうした物語のもとになった史料を紹介しておこう。