『甲陽軍鑑』が記す川中島の合戦

880 ~ 884

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』は武田信玄の家臣高坂弾正(こうさかだんじょう)昌信が著したという体裁(ていさい)をとって、信玄の定めた分国法「甲州法度之(はっとの)次第」をはじめ信玄・勝頼の事績・軍法などを記した書物で、甲州流軍学書ともいわれる。江戸時代初期の一六二〇年代には成立していて、広く読まれた。実録ではないが、荒唐無稽(こうとうむけい)でもなく、史実もとりこまれているとみられ、その後に川中島の合戦の物語が作られるときのもとになった史料であるので、この書に書かれた合戦の筋書きを紹介しよう。


写真17 甲陽軍鑑 典厩寺提供

 永禄四年八月十六日、信玄のもとに川中島から飛脚(ひきゃく)がきて、「輝虎(上杉政虎、永禄五年から輝虎)が海津城の向かいの西条(妻女(さいじょ))山に陣を取り、海津城を攻め落とそうとしているようです。その勢は一万三〇〇〇ばかりです」と報じた。これを聞いた信玄は十八日に甲府をたち、二十四日に川中島につくと、雨の宮の渡(わたり)に陣をとった。越後との通路を断つ形になったので、越後勢は心配したが、輝虎は少しも気にしない風であった。信玄が二十九日に広瀬の渡を渡って海津城に入ると、輝虎の家老は攻撃に出るよう進言したが、輝虎は西条山から動かなかった。武田方でも飯富兵部らが決戦を進言した。この年の六月に小幡(おばた)山城守が病死し、夏には割ヶ嶽(わりがたけ)城(鰐(わに)ヶ嶽城)で原美濃守が負傷して参陣していなかったので、信玄は山本勘助を召して、「馬場民部助と相談して、明日の合戦の陣立てを定めよ」と命じた。


写真18 信玄・謙信一騎討ち像
(更北小島田町八幡原史跡公園)

 勘助はつぎのように進言した。「二万の軍勢のうち一万二千を上杉の陣所の西条山に向かわせ、明日の卯(う)の刻(午前六時ころ)に攻撃を開始する。そうすると、越後勢は負けても勝っても川を越して退くでしょうから、そこに旗本が待ちかまえていて、前後からはさみうちにして討ち捕るのがよいでしょう」と。この作戦によって、高坂弾正(こうさかだんじょう)や真田一徳斎(幸綱)ら一〇人の率いる一万二〇〇〇が先衆として西条山に向かうことになった。旗本組は飯富三郎兵衛、武田信繁ら八〇〇〇から成り、寅(とら)の刻(午前四時ころ)に出発し、広瀬の渡を渡って陣を取り、敵が退くのをみて一戦を始めるよう指示された。城ではこれに備えて食事の準備がいっせいにはじまった。これを見破った輝虎は、侍大将たちを全部よび集めていった。「これまでたびたび信玄と合戦をしたが、決戦におよぶことなく戦場を信玄にとられて、自分かおくれをとっているかのようだ。信玄は明日を合戦と定めて、軍勢を二手に分けて一手がここを攻め、わが軍が退くところを討つ作戦に出るようだ。そこで今夜のうちに川を越えて夜をあかし、日の出とともに合戦を始め、ここへ向かった兵がこないうちに武田勢を切りくずして決戦をとげ、自分は信玄と一騎打ちをしよう」と。

 こうして上杉勢は九日亥(い)の刻(午後一〇時ころ)山を下り、雨の宮の渡を越えて静かに陣を取った。信玄は十日のあけぼのに広瀬の渡を越えて陣をとり、待ちかまえた。ところが、日が出て霧が晴れてみると、輝虎軍一万三〇〇〇がすぐ近くにいるのがみえた。信玄は信州侍の浦野を物見にやって、上杉軍の動きをさぐった。その報告を聞いて信玄は、輝虎が「くるまがかり」という戦法をとって、今日を限りと決戦をする覚悟でいることを見破り、陣容をたてなおした。


写真19 諸角豊後守墓
(更北稲里町下氷鉋)

 たちまち合戦が始まり、旗本どうしが入りみだれてはげしく戦うなか、萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着た武者が、白布で頭を包み、月毛の馬に乗って三尺ばかりの刀を抜きもって、床几(しょうぎ)にかけていた信玄をめがけて一文字に乗りよせ、三太刀をあびせた。信玄は立ち上かって軍配団扇(ぐんぱいうちわ)で受けとめた。あとでみると団扇には八つの刀傷があった。これに気づいた武田の中間頭(ちゅうげんがしら)らが、敵味方に知られないように信玄を取りかこみ守った。そのなかの原大隅(おおすみ)という中間頭が鑓(やり)で月毛の馬に乗った武者を突いたが、突きはずして、具足の肩上(わたがみ)を打って馬の三頭(さんず)(馬の背の尻のほうの高くなったところ)をたたいてしまったため、馬は棒立ちになって走り去った。あとできけば、その武者は輝虎だったということだ。

 武田方では典厩信繁、諸角豊後守(もろずみぶんごのかみ)が討ち死に、旗本足軽大将の山本勘助入道道鬼(どうき)・初鹿野(はじかの)源五郎も討ち死にし、信玄・義信の父子は負傷した。この合戦はおおかたは信玄の負けとみえたころ、西条山に向かった先衆が、鉄砲の音やときの声を聞いて、われさきにと千曲川を越してかけつけ上杉軍をうしろから攻めた。このため、輝虎は和田喜兵衛という侍一人だけをつれて「たかなしの山」を通って退却した。この合戦は、卯の刻に始まった前半は大かた上杉の勝ち、巳(み)の刻(午前一〇時ころ)に始まった後半は武田の勝ちであった。討ちとった上杉方の兵の数は雑兵もふくめて三一一七であった。その日の申(さる)の刻(午後四時ころ)に信玄はかちどきをあげた。


写真20 山本勘助墓
松代町柴、八幡原にほど近い千曲川対岸の土手下にある。


写真21 林泉寺川中島合戦供養塔
(新潟県上越市)


図2 川中島合戦関係図 (小林計一郎『川中島の戦』をもとに加筆作成)

 輝虎の後備(うしろぞなえ)の甘糟(あまかす)近江守は雑兵もいれて一〇〇〇人の備えを少しも散らさず、上杉勢の逃げた道をしずしずと退いた。このため、これを輝虎だと思ったものも多い。しかし、甘糟衆は途中で高坂弾正の軍勢に追撃されてほとんど討たれてしまった。それでも近江守は犀川を越えたところに三日間逗留(とうりゅう)して、逃げ遅れた上杉勢を集めて引きあげたので、近国・他国でこれを褒(ほ)めないものはなかった。

 以上が『甲陽軍鑑』にみえる川中島の合戦のあらましである。