永禄(えいろく)四年(一五六一)九月の川中島の合戦では、両軍合わせて少なくとも一〇〇〇人以上の戦死者が出たことはまちがいなかろう。数千人におよんだ可能性もある。上杉政虎の望んだように両軍が正面からぶつかり合う決戦となったが、戦い自体はどちらも「大利(たいり)を得た」などとはとうていいえない結末であった。しかし、もし川中島の合戦が、本領を追われた高梨氏ら国人の復帰のための戦争であるという明確な目的をもって戦われたのだとしたら、この第四回の戦争も、上杉軍にとってなんらの利ももたらさなかったといわなければならない。なぜなら、武田信玄はすでに海津城(松代町)を築いて、ここを北信支配の拠点として着々と支配体制を整備しつつあったのであり、ここを武田方から奪わない限り、国人の復帰の足がかりさえもてないからである。
しかし、政虎にそもそも海津城を奪い、武田方を北信から追い払うという戦略があったのか、という疑問がある。さきにみた史料からは、そのような戦略のもとで戦争をしたようにはみえない。政虎はただ互いの大軍を正面衝突させて切りあうことで、本望を達したと満足しているようにみえる。このときばかりでなく、政虎の戦争には、そのようにただ敵の大将と直接戦うことが目的であったかのようにみえる戦争の仕方が多い。信玄のようにひとつひとつの城を落とし、それを拠点に村や土地を支配する、そして支配領域を着実に拡大していくという戦争の仕方とはちがうのである。決戦主義ともいえる政虎の戦争の仕方は、成果は少なく、いたずらに兵力を消耗するという欠点がある。永禄四年の激戦はけっきょく上杉方に目にみえる成果をなにひとつもたらさなかった。他方、この戦争で海津城をはじめとする城砦(じょうさい)をひとつも失うことなく、上杉軍を追い払い、上杉方の拠点を飯山城・市川城や野尻(のじり)城(信濃町)に封じこめたという点で、武田軍は勝利したということができよう。北信四郡の支配権はほぼ武田の手に入り、天正十年(一五八二)の滅亡までゆるがなかった。
政虎は永禄四年以後もほぼ毎年のように秋か冬に関東に出兵し、春に帰国するという関東出兵に重点を移し、信玄も永禄四年十一月から西上野(こうずけ)(利根川以西)の平定をめざして出兵をつづけ、両軍の戦いの主舞台は上野に移る。しかし、信越国境の攻防戦もいく度となくおこなわれた。永禄六年四月に入るとすぐ、信玄はまだ関東に出陣中の輝虎の留守をねらって越後侵入を企てた。ところが、雪解けで犀川が増水して兵を動かすのが困難だったため、まず同月四日から人夫を動員して飯縄山麓(いいずなさんろく)に道路をつくらせた。それができるのを待って、十二日には信玄自身が出馬する予定でいたが、輝虎が帰国したというのでとりやめている。これでわかるように、国境地帯では、旧暦の四月に入っても、雪や雪解け水で軍事行動は容易ではなかったようである。しかし、このころ北信にいた武田軍は飯山城方面にすすんで、上杉方の城を急襲した。
この城は、現飯山市域の千曲川左岸の村々に土着していた武士の上倉下総守(かみくらしもうさのかみ)・奈良沢民部少輔・上堺(かみざかい)彦六・泉弥七郎・尾崎(おさき)三郎左衛門・中曽根筑前守・今清水源花丸ら、外様(とざま)衆とよばれる土着の武士の集団が守備していた。しかし、かれらが村に帰っていた留守を突かれて攻められたという。ちょうど春の農作業にとりかかる時期であり、武士でありながら農業経営にもたずさわっていたかれらの姿が浮かびあがる事件であった。四月二十日に輝虎は、上倉下総守らの不備・失態を叱(しか)るとともに、飯山口の備えとして安田惣(そう)八郎と岩井備中守(びっちゅうのかみ)を派遣することを伝えた。
この城の名は文書に記されていない。飯山城か、もしくは永禄三年九月に信玄が佐久郡松原社(南佐久郡小海町)に戦勝を祈願したなかで落城を願った「亀蔵(かめくら)城」かのどちらかと考えられる。亀蔵城は飯山城のすぐ南西にあった上倉氏の拠点上倉城とみられている。輝虎が宛名の筆頭に上倉下総守をあげていること、飯山城の落城であれば越後国境はたちまち危機におちいるから、それを奪い返すに越後からもかなりの軍勢を投入したはずだが、そうした動きはなかったことなどを考えると、上倉城のほうが可能性が高いように思われる。また、城が完全に落城したとも記されてはいない。城郭の一部を武田軍が攻め落としたが、じきに上倉らが奪い返したのではないだろうか。
永禄六年八月、輝虎は飯山城に越後から桃井(もものい)義孝・加地(かじ)春綱を城代として派遣した。安田・岩井のかわりであろう。二人は二の曲輪(くるわ)に入った。「弥七郎ハ城ぬしの事に候間、実城にもとの如く守りい候様に」申しつけられた。泉弥七郎が飯山城の城主で、実城(本丸のこと)にいたことがわかる。もともとこの城は泉氏の城であったという伝承をもっており、輝虎はこの城を越後国境防衛の要の城と位置づけても、泉氏の権利を否定しないよう配慮したのである。外様衆を敵にまわすことは避けねばならなかった。