永禄七年の川中島出兵

887 ~ 890

永禄七年(一五六四)春、武田信玄は上杉輝虎の関東出兵の留守をねらってまた国境地帯に兵を出し、野尻城を攻略し、越後へ侵攻させたが、上杉軍は同城を四月十八日に奪い返した。この武田軍の出兵は、陸奥(むつ)会津(福島県)の蘆名(あしな)氏と結んで、その軍勢が越後北部へ侵攻するのと連携しておこなわれた。また、西上野でしだいに武田方の勢力が増大し、これに抵抗する倉賀野(くらがの)氏や富岡氏が上杉に救援を求めていたこともあって、輝虎はもう一度川中島に出兵して信玄と戦おうと考えるようになった。


写真23 上杉謙信像
(新潟県上越市春日山城跡)

 輝虎は七月二十九日善光寺のあたりに着陣すると、上野国の富岡重朝(しげとも)への書状で、近日中に佐久郡にすすんで碓氷(うすい)峠から上野に進軍すると申し送った。八月一日には更級郡八幡宮(更埴市。武水別神社)に願文(がんもん)を捧げて戦勝を祈願した。そのなかでは、信玄の悪行として「戸隠・飯縄・小菅(こすげ)三山をはじめ、善光寺、そのほか在々所々の坊舎・供僧」を断絶させ、寺社領を没収したことをあげている。そして自分の出兵は「この国を競望(けいもう)するにあらず、仮令(けりょう)隣州たるにより、小笠原・村上・井上・高梨・島津、皆これ累代申し談じ」たものたちのためなのだと、正当化している。

 八月三日、輝虎は犀川を越えて川中島にすすんだが、信玄は上杉軍との対戦を避けて塩崎に陣をかまえたまま動かず、いたずらに日を送るばかりで、佐久郡への進軍はけっきょくできなかった。仕方なく輝虎は飯山城まで退いて、城普請を指揮した。この間、高梨旧臣だった岩船藤左衛門長忠が堀江宗親とともに、北信で目付を使って敵の動きを監視し、輝虎の陣に報告する役目についていた。武田軍は小玉坂(牟礼村)や髻(もとどり)山(牟礼村・長野市)あたりに小規模ながらひんぱんに兵を動かして飯山城をうかがう動きをみせていたようで、岩船長忠らもこれに対抗して足軽などを動かし、また旭山方面へも目付を入れて信玄の陣所を見届けようとしていた。それは敵地に深く入りこむことで危険をともなった。輝虎は十月一日に春日山に帰ったが、それとともに武田軍が北上することも予想され、川を越えて中野筋へすすむか、それとも撤退するか、よくよく見届けて注進するよう長忠らに命じている。以上が、第五回の輝虎の川中島出兵のあらましである。戦闘といえるほどのものはなかった。北信四郡の軍事・政治状況になんらの変化ももたらさなかった。ただ普請によって、飯山城の備えは堅固になったであろう。

 武田方は信州の支配体制をほぼ整え、永禄九年には西上野の反武田方最大の拠点箕輪(みのわ)城(群馬県群馬郡箕郷(みさと)町)を攻略した。ついで信玄は一転して今川氏の領国駿河(するが)(静岡県)への侵攻を企て、永禄十一年十二月甲府をたって南進を開始する。それに先だって信玄は、輝虎が留守中に川中島に出兵できないよう手をうった。越後の北の有力国人本庄繁長(ほんじょうしげなが)に手をまわして、永禄十一年三月挙兵させることに成功したのである。このため越中(富山県)に出陣していた輝虎はただちに帰国したが、これをくだすのには一年を要した。越中で輝虎と戦っていた一向一揆(いっこういっき)や本願寺は信玄と結んでいて、輝虎が本庄攻めに向かえば越中口から侵攻する構えをみせていて、輝虎の動きを牽制したからである。

 この永禄十一年、信玄自身も北信に出陣して長沼に在陣し、越後侵攻をめざした。七月に飯山城を攻め、同十日には上倉城を攻略した。輝虎は東・西・南に敵をかかえて最大の危機に直面していた。飯山城には新発田(しばた)・五十公野(いじみの)氏らを救援に入れるとともに、関山(新潟県中頸城郡妙高村)に新城を築いて須田左衛門大夫・同順渡斎や上杉十郎らを入れた。こうしてなんとか飯山城は確保することができた。信玄は長沼城を再興して城番衆を置き、敵への前線基地とした。帰陣を前に、十月二日に島津孫五郎に本領安堵と新知の宛行(あてがい)をし、長沼の西巌寺(さいごんじ)にも本領を安堵(あんど)し、三日には称名寺(しょうみょうじ)(芹田小市)と勝楽寺(須坂市)に禁制(きんぜい)を発している。

 永禄十二年八月、越中出陣中の輝虎は飯山・市川・野尻の守備に油断のないよう申しつけている。この三ヵ城がいぜんとして上杉方にとって信州側の国境防衛拠点であったことがわかる。また飯山城には外様衆と山浦(村上)源吾らを入れるよう命じている。市川についてはこののちも、「市川寄居」「市川新地」がみえ、普請がおこなわれている。


写真24 上杉謙信の墓
(新潟県上越市林泉寺)

 信玄は永禄十一年十二月十三日、駿府(すんぷ)(静岡市)を攻めて今川氏を追い、上洛への足がかりをつかんだ。しかし、四年あまりのちの天正(てんしょう)元年(一五七三)四月病死し、勝頼が家督をついだ。勝頼が天正三年に長篠(ながしの)の合戦で大敗したときには、海津城の春日弾正の子昌澄、小幡上総介(おばたかずさのすけ)信貞など北信ゆかりの人や、真田信綱とその弟昌輝(幸綱の子)など多くの人が戦死した。武田は存亡の危機にたたされた。