御館の乱と越甲同盟

890 ~ 893

天正六年(一五七八)三月十三日に上杉謙信(けんしん)(元亀(げんき)元年(一五七〇)より謙信と称す)が死去した。「中気(ちゅうき)」で厠(かわや)で倒れてから四日後のことであった。謙信には実子がなく、景勝と景虎の二人の養子がいた。景勝は謙信の姉と越後魚沼郡坂戸(南魚沼郡六日町)の城主長尾政景とのあいだにできた子で、政景の死後養子とした。景虎は、謙信が永禄十二年(一五六九)に関東の北条氏と同盟を結んだことにより、北条氏から人質として送られ、景勝の妹を妻として、謙信の若いときの名をあたえられ養子となった。

 謙信の死後、この二人が家督を争い、家臣団も二派に分かれて「御館(おたて)の乱」とよばれる戦争がおきた。信州出身者たちも二派に分かれた。岩井氏では大和守と式部が景虎方に、昌能(まさよし)・信能父子は景勝方になり、東条(ひがしじょう)氏では兄の惣介(そうすけ)が景虎方に、弟の加賀左衛門が景勝方になって一族や兄弟が分裂した。景虎方の東条佐渡守は五月十六日城下に火をかけ家三〇〇〇軒ばかりを焼いたという(『景勝一代略記』『越佐史料』五)。


写真25 御館跡
(新潟県上越市五智)

 景勝が機先を制して春日山城の実城(本丸)や黄金を蓄えていた蔵をおさえたが、景虎には実家の北条氏のうしろ盾(だて)があった。北条の働きかけをうけた上野厩橋(まやばし)(前橋市)城将の北条(きたじょう)氏や沼田城(沼田市)の上野家成・河田重親らは景虎方となって越後に侵攻、ついで北条勢も越後に入った。信州の飯山城からも城将の桃井義孝らが景虎方となって越後に攻めこんだ。これにたいし、越後妻有(つまり)城(十日町市)の小森沢政秀らが五月二十七日飯山を攻めて放火し数十人を討ちとっている(『信史』補遺上)。武田勝頼も北条氏と同盟を結んでいたから、その要請をうけて大軍を越後に差しむけた。この勝頼の動きが戦争の勝敗に大きな影響をあたえた。

 武田軍の先陣として小諸城主武田信豊が五月下旬に信越国境にすすみ、つづいて勝頼が進発した。この大軍を敵にまわしては景勝方に勝利の展望はなかった。このため景勝は信豊に強く働きかけて、勝頼と和議を結ぶ策に出た。景勝は信濃と上野を武田に渡すこと、黄金を贈ることなど一方的な負担を講和条件とし、六月七日には信豊や海津城主春日虎綱らの合意をとりつけることに成功した。信豊と虎綱が勝頼の説得にあたり、景勝の誓詞は六月十二日に海津城で勝頼に披露された。その後勝頼は長沼城をへて越後に入り、春日山城近くまですすんで上杉家の内紛について景勝と景虎の和議の仲介をおこない、八月二十八日帰途についた。しかし、けっきょく和議は破れ、翌天正七年三月二十四日景虎は自刃した。十月勝頼の妹菊が景勝に嫁ぎ、甲・越の同盟が堅固なものになる反面、武田と北条との戦争が始まり、信州の武士たちも北条や徳川家康との戦いに引きつづき動員され、天正十年(一五八二)を迎える。


図3 長尾氏略系図

 御館の乱に景勝方に属して戦った武士のなかで、村上国清、岩井昌能父子、島津左京亮(さきょうのすけ)、同喜七郎らの活躍が史料にみえ、かれらは景勝の政権が成立すると重く用いられる。他方で景虎方に属した人びとはほぼ討たれたり、所領を没収されたりした。天正十年に景勝が北信を占領すると、村上・岩井・島津が城主にとりたてられる基礎はこのときにつくられたといえよう。

 さて、上杉景勝との同盟によって、信濃国全域が武田勝頼の支配下に入った。それまでの武田と上杉の領土は国境とは無関係に、実力支配によって定められたものであったが、今度は越後と信濃の国境によって領土の境界が定められた。領土争いはなくなり、国境の人びとにようやくつかの間の平和が訪れた。では、上杉の属城飯山・野尻・市川城にいて上杉の家臣だった人びとはどうしたのであろうか。

 上杉家臣として飯山城の守備にあたっていた外様衆の一人尾崎孫十郎重元にたいし、天正六年九月二十三日付で勝頼からつぎのような文書が出されている(『信史』⑭)。

向後忠節を抽(ぬき)んずべきの旨言上候間、累年抱来(かかえこ)らるる領地、異儀なく下し置かれ候。重ねて御検使をもって相改められ、知行分定納(じょうのう)の員数によって軍役を定めらるべし。いよいよ忠信肝要たるべきの由、仰せ出(い)ださるるものなり。よって件(くだん)の如し。

 尾崎氏は武田の家臣となることを望んで、今後は武田に忠節を尽すことを申しでた。勝頼はこれを承諾し、これまで抱えてきた尾崎氏の領地を安堵した(御恩)。こうして新しい主従関係が成立したのである。そこで、勝頼は尾崎氏の領地の知行高を調べるために検使を派遣し、定納高を把握して、その大きさにみあう軍役(奉公)を定めることを通告した。ほかの外様衆もおそらく同様にして武田家臣になったと考えられる。かれらは土着性が強く、村から離れることを望まず、だれが大名であっても、自分たちの領地や権益を守ってくれるものならだれでもよかったのである。このほかに、大滝甚兵衛尉も天正七年春にみずから申しでて武田の家臣となり、飯山領で領地の宛行を約束された。大滝も現飯山市西大滝付近を本拠地とした武士で、飯山城の守備にあたっていたのであろう。このように信濃の村々に本拠地をもっていた人びとはほぼ武田家臣となり、おそらく越後の村々に本拠地や中心的な所領をもっていて城番として派遣されていた人びとは上杉家臣として越後にもどったのであろう。外様衆は飯山領のほかに越後国内でも所領をあたえられていたようであるが、それらは没収された。