真田氏の台頭

893 ~ 896

最後に、近世に長野市域の大半を支配した大名真田氏の戦国時代の足跡を簡単にたどってみよう。真田氏が松代一〇万石の大名として戦国時代の海津城の地に入ってくるのは元和(げんな)八年(一六二二)、信之(のぶゆき)の代のことである。信之は昌幸(まさゆき)の嫡子(ちゃくし)で、昌幸は兄の信綱・昌輝か長篠の合戦で戦死したため、真田の家督をついだのであった。


図4 真田氏系図

 真田氏は小県郡真田郷(真田町)を名字の地とする滋野(しげの)姓海野(うんの)氏の一族であるが、そのなかでは小さな勢力にすぎなかった。天文(てんぶん)十年(一五四一)海野平で海野氏が信玄に敗れたときには、一族である真田幸綱も上野国に敗走した。しかし、数年後には本拠の真田本城(松尾城)に帰城し、天文十七年までには信玄に出仕したとみられ、同二十年には戸石城を攻略、弘治二年には尼巌(あまかざり)城を攻略したほか、東信・北信の武士に働きかけて信玄に出仕させる調略に手腕を発揮し、信玄の北信侵攻に重要な役割を果たした。その後尼巌城の在番衆となり、永禄四年の川中島合戦では、幸綱・信綱父子は妻女山の上杉本陣への夜襲部隊に加わったと伝える(『甲陽軍鑑』)。

 この合戦後、武田と上杉の戦争の主舞台は上野国(群馬県)に移る。永禄三年に関東管領であった上杉憲政を奉じて関東に出兵し、翌年上杉の名跡(みょうせき)を継承した謙信は、上杉氏が守護であった上野国をみずからの分国と称し、ここを拠点に小田原の北条氏と戦い関東の掌握をめざした。いっぽう、北条氏は武田・今川と同盟を結んで上杉に対抗し、信玄に上野出兵を求めた。このような勢力関係のなかで、信玄の西上野出兵が始まるのであるが、これにさらに西上野吾妻(あがつま)郡の有力武士羽尾(はお)氏と鎌原(かんばら)氏の所領争いががらんで、信玄の出兵が本格化することになった。

 羽尾氏・鎌原氏は真田氏と同じ滋野姓海野氏の出であった。このため羽尾氏が上杉方につくと、鎌原氏は幸綱を頼んで信玄の支援を求めたのである。幸綱が吾妻に隣接する小県郡を本拠とし、そこから埴科・高井郡への調略の先鋒(せんぽう)として活躍してきたこともあってか、吾妻への侵攻は幸綱を中心としてすすめられた。そして信玄自身はその南の上野安中(あんなか)(安中市)・箕輪(みのわ)(群馬郡箕郷町)を中心とする地域の掌握をめざした。

 永禄六年(一五六三)六月真田幸綱は信濃に逃れていた鎌原幸重とともに出兵し、羽尾氏が奪っていた鎌原城(吾妻郡嬬恋(つまこい)村)を攻略した。ついで、長野原(同郡長野原町)の合戦で羽尾氏やそれを支援する斎藤氏などの軍勢を破り、大戸(おおど)城(同郡吾妻町)を攻めて大戸中務少輔(なかつかさしょうゆう)をくだした。上杉方の吾妻地方における中心勢力の一人斎藤憲広(のりひろ)は、吾妻川と四万(しま)川によって南と東を画された天嶮(てんけん)の山城岩櫃(いわびつ)城(同)によって真田に対抗していたが、幸綱は城衆を調略して内応させ、ついに十月十三日これを落とした。斎藤氏らはさらに北の嶽山(たけやま)城(同郡中之条町)に移って抵抗をつづけたが、幸綱はその重臣池田佐渡守を味方に引き入れ、永禄八年十一月城を落とした。これをもって吾妻郡はほぼ武田の支配下に入り、これに加えて翌年九月に信玄が箕輪城を攻略、翌十年五月に総社(そうじゃ)城(前橋市)を攻略すると、利根川以西の西上野が武田領国に組みこまれた。

 西上野支配の中心は箕輪城で、甲斐の内藤修理亮(しゅりのすけ)昌豊とその子昌月が城主となり、禰津松鷂軒(ねつしょうようけん)・大井左馬允(さまのじょう)入道ら信州侍が在城衆として派遣された。これにたいし、真田幸綱は岩櫃城の城主となり、吾妻郡の武士にたいする軍事指揮権をもっていたと思われるが、吾妻の郡司職(ぐんじしき)(後述)の権限をもっていたか否かは明らかでない。元亀元年(一五七〇)四月、駿河出陣を予定していた信玄は、謙信が上野沼田(沼田市)に在陣しているとの情報を得て、真田信綱から謙信が帰国したか否かの情報を速かに得るよう、海津城の春日虎綱に命じている(『信史』⑬)。このときには信綱は岩櫃城にいたとみられ、またこれ以前父幸綱(当時一徳斎と称す)から家督をゆずりうけていたと考えられる。幸綱は天正二年五月病死するが、遠江の高天神(たかてんじん)城(静岡県小笠郡大東町)を攻めていた勝頼から同月信綱に出された書状に、一徳斎の煩(わずらい)少々験気を得らるるの由、大慶に候。なおその城の用心疎略なく肝煎(きもいり)頼み入り候」とあるから(同⑭)、信綱とともに岩櫃城にいてそこで亡くなったのであろう。


写真26 真田幸綱(幸隆、中央)。昌幸(右)の墓
(小県郡真田町長谷寺)

 幸綱の死後一年にして信綱兄弟が長篠で戦死すると、真田の家督は、甲斐の名門武藤氏をついでいた弟の昌幸がついだ。昌幸は幼少時に人質として甲府に行き、奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)(小姓)に加えられ、佐久郡に出された武田家朱印状の奉者となるなど、しだいに重用されていった。昌幸は家督相続後は岩櫃城主として上杉に備えたとみられるが(『信史』⑭)、天正六年に武田が同盟の条件として上杉から東上野の領有を認められると、昌幸は沼田城奪取をめざして北条軍とのあいだで攻防戦を展開した。

 天正八年四月はじめ甲府から帰城した昌幸は吾妻衆を率いて沼田城を攻め、調略を用いて六月にこれを落とし、名胡桃(なぐるみ)城(利根郡月夜野町)・猿ヶ京城(同郡新治(にいはる)村)なども支配下に入れて、沼田領を掌握した。この攻防戦のころから、昌幸は沼田領の武士あてに所領の宛行を約束するなど、軍事指揮権をもとに独自に文書を出すようになっている。また、吾妻領・沼田領の武士あてに所領の安堵や宛行をした武田家朱印状の奉者を勤めている。そして、天正九年六月七日に勝頼から昌幸あてに出された条目一四ヵ条から、昌幸の政治的な地位をうかがうことができる(『信史』⑮)。勝頼はそこで、吾妻・沼田両領での城普請・仕置を厳重に申しつけるよう命じるとともに、人夫、知行割り、分国中の往還(通行)、諸法度の申しつけ、一宮(いっくう)社領、馬のことなど、多岐にわたって指示しており、昌幸がそうした権限を認められていたことを示す。昌幸は単なる軍事指揮者ではなくて、二つの領の城主兼郡司の地位を獲得していたと考えられる。昌幸はその権限をもとに、武田滅亡後は自立して吾妻・沼田領を確保し、さらに小県郡に侵攻して、小さいながらも大名の地位を獲得することになった。