武田か上杉か

897 ~ 900

上杉謙信は永禄(えいろく)七年(一五六四)六月二十四日の弥彦(やひこ)神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)への願文(がんもん)で、武田信玄によって「小笠原・村上・高梨・須田・井上・島津、そのほか諸士牢道(ろうどう)」となったとして、信玄の退治を祈った。かれらが信濃を追われたことはまちがいないが、これらの名字の人たちが一族あげて謙信を頼ったわけではなかった(以下、謙信・信玄に統一して記す)。


表1 島津泰忠の知行地

 島津氏には文明年間(一四六九~八七)ころに、孫六、兵庫助、薩摩守(さつまのかみ)を名乗る長沼島津氏と、赤沼(長沼)を支配して、常陸守(ひたちのかみ)(常陸介)を名乗る赤沼島津氏がいた(『諏訪御符礼之古書(みふれいのこしょ)』)。前者の系譜を引く島津淡路守忠直は謙信を頼り、後者は信玄についた。後者の島津孫五郎は永禄十一年十月二日、本領として夏川(牟礼(むれ)村)、西尾張部(古牧)、普光寺(ふこうじ)分の一部(三水(さみず)村)、堀廻(まわり)を安堵(あんど)され、新恩も宛行(あてが)われた。堀廻は、天正(てんしょう)六年(一五七八)七月に同人が左京亮(さきょうのすけ)泰忠と名乗って提出した指出(さしだし)には屋敷廻と記されているから、居館の廻りの地をさすとみられ、それは赤沼の地にあったのではないかと考えられる。同人は天正八年三月から受領(ずりょう)名の常陸介を名乗り、天正十年には上杉景勝から安堵をうけた(表1参照)。永禄十一年に安堵された本領は一六八貫文にすぎないのにたいし、新恩は七〇七貫文と、じつに本領の四倍以上もある。これこそが、泰忠が武田についたねらいであった。これにたいし、長沼島津氏のほうがずっと大きな勢力であったことが、天正十年七月に淡路守忠直が上杉景勝からあたえられた所領からわかる。そのなかに本領を意味する島津領として、吉(よし)村(若槻吉)、平出・黒川郷・牟礼・野村・小玉(以上牟礼村)、古間(信濃町)、塩赤(赤塩)・福王寺・倉井(以上三水村)、今井(豊田村)の計五一〇〇貫文がふくまれているからである(『新潟県史』③)。また、これと別にあたえられた長沼・津野(長沼)も本領であったから、惣領家(そうりょうけ)が旧太田庄のほぼ全域にわたって点在する所領を保持していたことがわかる。この惣領家のほうが武田に抵抗して本領を失ったのである。

 井上氏では文明年間やその少し前ころに、惣領家の井上伊予守(いよのかみ)政家がおり、ほかに亘理(わたり)(若穂綿内)・小柳(同)・南高田(古牧)を領した井上信濃守政満(綿内井上氏)、長池(古牧・朝陽)を領した井上富長讃岐守(さぬきのかみ)為信、山田(高山村)を領した井上安芸守満貞などいくつかに分かれていた(『諏訪御符札之古書』)。これらのうち、井上庄一六郷を領有した惣領家が武田に抵抗して上杉を頼り、綿内井上氏とみられる井上左衛門尉が武田に属して、弘治(こうじ)二年(一五五六)六月二日に綿内領のうちの隠居免三五〇貫文を宛行われた。永禄六年五月にはその子とみられる井上新左衛門尉が新恩として寺内采女(うねめ)・同玄蕃(げんば)分一〇〇貫文と小柳知行一五〇貫文、温湯(ぬるゆ)(若穂綿内)のうち三五貫文を宛行われた。

 須田氏では、新左衛門が早くも天文(てんぶん)十九年(一五五〇)に武田に臣従した。同人は永禄九年六月、伊勢神宮(墨坂神社)に願文(がんもん)を捧げて八重森の地(須坂市)を信玄から宛行われるよう祈った須田刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)信頼と同一人物であろう。これにたいし、須田満国・満親父子と満国の弟満泰が上杉方に走った(『須坂市史』)。永禄十一年、武田軍の侵入に備えて関山(新潟県中頸城郡妙高村)の新城を守った須田左衛門大夫が満国、同順渡斎が満泰であろうか。『須坂市史』では信頼は兄の系統で須坂郷(須坂市)により、満国は弟の系統で大岩郷(同)によったとみているので、確証を欠くが前者が惣領家とすれば他の国人の家とは逆の動きをとったことになる。

 葛山(かつらやま)(芋井)の落合氏でも、惣領二郎左衛門尉は最後まで武田に抵抗して滅亡したが、庶流の遠江守(とおとうみのかみ)・三郎左衛門尉が武田に通じた。高梨氏でも、庶流の小島修理亮(しゅりのすけ)が弘治(こうじ)元年の第二次川中島合戦以前に武田に属し、山田(原)左京亮も弘治三年二月に武田に属して本領を安堵され、新恩をあたえられた。

 このように、善光寺平の有力国人が一族をあげて上杉を頼った例は見いだせない。広い範囲に所領をもち、一族の家臣化と領内の武士・地侍の家臣化をすすめつつあった惣領家が武田に抵抗して本領を失い、庶流が武田についたというのが須田氏を除く他の諸氏の特徴である。これは庶流が、惣領家がしだいに強大化していき、みずからはその臣下として従属度が高まっていくのをきらっていたからにほかならない。

 一族以外の国人(こくじん)の家臣では、たとえば中野氏の一族で一五世紀末ころ高梨氏の家臣になった夜交(よませ)郷(山ノ内町)の夜交氏の場合、惣領筋の左近丞(さこんのじょう)(助)家が武田に通じ、民部左衛門や九郎三郎は上杉方に走った。これは惣領家が高梨からの自立をはかったからにちがいない。高梨氏では、家臣の木島出雲守が弘治三年(一五五七)ころには山田(原)左京亮とともに武田に通じている。井上氏では鮎(あゆ)川中流域の仁礼(楡井(にれい))の地(須坂市)にいた楡井治部少輔や大峡織部佐(おおばおりべのすけ)らは上杉方についたが、「仁礼衆五十人」は信玄に属して五〇〇貫文を宛行われている。後者の仁礼衆の場合、居住地から離れることをきらい、自分たちの既得権を認め、さらに恩賞をあたえてくれる大名ならだれでもよいと考えたのであろう。かれらのように、先祖代々の居住地や所領の確保を第一に考え、武田にしたがった武士が多かったことであろう。したがって信玄はまずかれらに本領安堵をおこない、さらに新恩をあたえて離反をとどめようとした。