恩賞要求と宛行

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屋代政国は天文二十二年(一五五三)四月五日に塩崎氏とともに武田方に通じ、九日に信玄のもとに二人で出仕し服属した。おそらくこのときまでに雨宮(あめのみや)(更埴市)を宛行うよう要求していて、信玄から宛行を約束する文書を得たのであろう。そして政国はそのあとで信玄に正式の文書の発給を求め、四月十六日付であたえられた。それによれば、雨宮には村上義清の直臣の所領があって、その分は除外された。義清の直臣が寝返って服属してきたさいに、その本領を安堵する必要があったからであろう。

 雨宮は千曲川の渡し場がある交通の要衝(ようしょう)であることから、政国はこの地を以前から手にいれたいとねらっていた。しかし、義清の塩田城(上田市)が落ちた三日後の八月八日には、理由は不明だが、政国は雨宮を取り上げられ、替地として新砥(あらと)(上山田町)を宛行われた。永禄元年には政国は屋代と新砥を領していることがわかるから、名字の地屋代はおそらく出仕のときに安堵されていたであろう。弘治三年に高梨旧臣の山田左京亮が服属したときも、信玄はただちに本領五〇〇貫文の地を安堵するとともに、新恩として大熊郷(中野市)七〇〇貫文を宛行った。

 反武田方の勢力がなお残る時点で、武田に服属を表明した北信の武士たちを確実に味方にひきつけておくためには、かれらの要求にこたえることが何より重要であった。それが速やかな本領安堵と新恩宛行である。屋代政国が新恩として雨宮の宛行を約束されたとみられる四月九日は、村上義清か葛尾(かつらお)城(坂城町)を自落した日であるから、現実に武田方が雨宮とその近辺を支配下にいれていたわけではない。しかも十六日の時点で、義清の直臣の所領が除外されているのは、直臣の権利が否定されていないことを意味する。村のなかには、村上同族の雨宮氏などと結びつきをもっていた人たちがいたであろうから、雨宮氏自身が義清とともに村を離れていたとしても、新領主政国の支配をすんなりと受けいれる村人はいなかったであろう。八月になって替地があたえられた背景にはそのような事情があったかとも考えられる。

 弘治元年十月に小島修理亮と同心七人が、高梨のうちの河南(かわみなみ)(夜間瀬川以南)一五〇〇貫文を宛行われ、翌年香坂筑前守が八郎丸郷(松代町)を、井上新左衛門尉が綿内領を、市川孫三郎が安田(高梨一族)遺跡(飯山市木島)を宛行われたが、その時点でそれらの地が武田方の支配下に入っていたとはいえないから、かれらがじっさいにどの程度支配できたか、どれだけ年貢を取りたてることができたか疑問である。弘治三年春の葛山城落城を画期として、善光寺平から反武田方の勢力がほぼ一掃されるが、それまではなお、反武田方の領主は村々に住んでいたり、あるいは年貢等を徴収するために村にやってきたはずである。いっぽう、新恩地をあたえられた武士は信玄の宛行状をよりどころに、村々に年貢等を徴収しようと赴くであろう。そこで村々では、反武田方の旧領主と武田方の新領主とが年貢等の徴収をめぐってきびしい闘いをくりひろげることになったであろう。村の百姓たちも、いったいどちらに年貢を納めるのか、情勢を見きわめ、適切な判断をくだす必要があった。ことに新領主は、地域全体が武田の支配下に入っていないところの村においては、侵略者・横領者同然であり、どれだけ支配できるかは自分の力量にかかっていたから、宛行状は当面は空手形同然であった場合も少なくない。

 しかし、武田方についたものにとってはそれでもよかったのである。主人として君臨しようとした国人や、対抗勢力であった一族、近隣武将のもっていた所領を獲得して、そこが自分にあたえられた地であり、他のだれもが手出しできないと主張できるお墨付をほしかったからである。他方、信玄の側からすれば、当面は空手形同然であったとしても、かれらの要求に応じてあたえたのであり、味方につけておく何よりの方策であったし、かれらは自力で新恩地を支配しようと努めるから、敵方の経済基盤をより速く掘りくずす期待ももてる。一石二鳥の効果があった。

 現在残っている文書でみると、北信の武士や土地に関する安堵・宛行状は天文二十二年から弘治三年までの五年間に一五点あるのにたいし、翌年から永禄七年(一五六四)までの七年間には八点しかない。これは、敵方とのきびしい対決の時期こそ文書が集中的に発給されることを示し、それが多くの武士を味方に引きいれる効果をいかんなく発揮したといえるのであり、右に述べてきたことと対応するであろう。