歩兵中心の軍役

903 ~ 905

大名と家臣の主従関係は、大名が服属を申しでてきた武士に本領を安堵したり、新しい領地を宛行ったりして御恩をあたえ、それにたいして奉公の義務を負うという、御恩と奉公の関係で成りたっていた。奉公は家臣としての義務(役)であり、一般に軍役(ぐんやく)といい、身命を捨てて主人のために尽すさまざまな奉仕があったが、その中心はあたえられた所領の大きさに見合った兵士を率いて戦争に参加し、戦功をあげることであった。大名としてはできるだけ多くの兵士を動員したいから、各家臣の兵士数はみずからが決定した。そのさい、家臣によって負担に不平等感が生じないようにする必要があり、どの大名も所領の大きさを銭の量の貫文(かんもん)(貫高)か米の量の石(こく)(石高。俵の場合もある)であらわして、それにおよそ比例させて兵士数を決定するという合理的な方法をとった。

 第四次川中島合戦の少し前の永禄四年(一五六一)五月、信玄は塩田在城を申しつけた桃井六郎次郎にたいし、筑摩郡内田(松本市)で定所務一五六貫七四〇文と同郡二子(ふたご)(同)で二〇貫五〇〇文をあたえ、そのほかに自分の蔵の米か銭を給与する(蔵出(くらだし)という)ことを約束して、具足(ぐそく)・甲(かぶと)をつけた四〇人の歩兵を在城させるよう命じている(『信史』⑫)。永禄五年十月十九日には、二〇〇貫文以上の所領高だったと推定される大井左馬允(おおいさまのじょう)にたいし、つぎのような朱印状を出している(同)。

(朱印) 定 四十五人この内四十人具足

    右之内

一持道具         弐本

一弓           五張

一鉄放(砲)       壱挺

一持小旗         壱本

一乗馬          五騎

一長柄          三十一本

   この内五本在府につき赦免

     以上

   右かくの如く召し連れ、軍役を勤めらるべく候もの也。

    壬戌(みずのえいぬ)十月十九日

         大井左馬允殿

 この文書にも「軍役」とはっきり書かれているが、このように武器や武装の内わけが具体的に定められた。一条目の持道具とは持鑓(やり)のことで、最後の長柄(ながえ)鑓と合わせると、四五人中鑓が三三人と比重が高く、弓が少なく、鉄砲はさらに少ないことがわかる。また四五人中騎馬兵は五人と少なく、残り四〇人が歩兵である。最初に書いてある具足の四〇人とは歩兵のことで、甲の着用は義務づけられていなかったようである。

 じつはこの九日前にも、信玄は大井左馬允に四五人の軍役定書(さだめがき)を出している。その内わけは鑓(長柄)三〇本、弓五張、持鑓二丁、鉄砲一丁、甲持・小旗持・差物(さしもの)持各一人、手明(てあき)四人で具足着用とあった。それが、九日後に手明など五人分を騎馬兵に振りかえた。その理由はわからないが、鑓・弓・鉄砲の数は減らなかったのだから、左馬允の軍役負担が格段に重くなったことはまちがいない。

 武田軍の特徴は勇猛な騎馬軍団であるとよくいわれるが、左馬允の軍役でみる限り、軍隊のなかでの騎馬兵の割合は多いとはいえない。たとえば、北条氏の場合、弘治二年(一五五六)に家臣の伊波の軍役を定めたときには五六人中一二人が騎馬であった。左馬允自身も騎馬で出陣したはずだから、四六人中六人が騎馬となるが、それでも騎馬の割合は七・六六人に一人にすぎず、北条の場合の四・六六人に一人にはるかにおよばない。さきの桃井(もものい)の例や、左馬允の最初の軍役定書から考えると、信玄は歩兵に相当の比重を置いた軍隊編成を考えていたといってよいだろう。そして歩兵の中心は鑓であった。

 なお、永禄十一年、信玄は越後に出陣のさいには野伏を出すよう寺院に命じ、本誓寺(松代町)と康楽寺(篠ノ井塩崎)に各二人、西厳寺(さいごんじ)(長沼)に一人の野伏を割り当てている(『信史』⑬)。これも歩兵である。


写真27 本誓寺 (松代町)