この時期に、北信の武将たちにも左馬允のような軍役定書が出されたと思われるが、今は残っていない。そして、永禄十二年になると、すでに定まっている軍役は基本的に変更しないままで、武器や武装に若干の変更や厳格な規定が加えられた。市川新六郎あてと海野衆・海野伊勢守・同三河守あての二点が残っていて、ともに土屋昌続(まさつぐ)が奉者となっている(『信史』⑬)。まず、騎馬・歩兵ともに、烏帽子(えぼし)や笠にかえて甲の着用が命じられた。長柄鑓の長さは三間とし、グループごとに仕立て方を統一すること、軍役定書で長柄一〇本と定まっている場合は持鑓三本と長柄七本の割合とすること、乗馬衆は甲・咽輪(のどわ)・手蓋(てがい)・面頰当(めんぼうあて)・脛楯(すねだて)・差物を着用し、歩兵も手蓋・咽輪をつけること、定納二〇〇貫文(二万疋(びき))を知行しているものは乗馬のほかに引馬二疋をかならず用意すること、とある。
このころには鉄砲を増やそうと考えていたらしく、鉄砲が不足しているから用意せよとか、鑓にかえて弓と鉄砲を持参せよとか、良い放手(はなちて)(射撃手)を召し連れよなどとも命じている。家臣は先記の左馬允の例のように、鑓・鉄砲など規定どおりの装備の兵士数を率いていくよう義務づけられていたが、それは最低限の規定であり、それ以上の兵士や装備も求められた。しかし、家臣にとっては軍役は相当に重い負担であったとみえ、実質的なサボタージュをはかるものも少なくなかった。第八条では「知行役の被官のうち、あるいは有徳(うとく)の輩(ともがら)、あるいは武勇の人を除いて、軍役の補いとして、百姓・職人・禰宜(ねぎ)または幼弱の族(やから)を召し連れ参陣は、ひとえに謀逆の基(もとい)これに過ぐべからざるのこと」といっている。数合わせのために戦闘能力の劣る百姓や幼少のものなどを連れていっているというのである。そのような人びとは当然に十分な武器や武具を用意できない。信玄としては、武器・武具も十分に用意できて戦闘能力もある有徳(裕福)の人や武勇の人をもって軍隊を編成したかったのである。
武器には当然に戦闘の機能が第一に要求される。どの大名も歩兵の集団戦用に長い鑓を採用した。北条氏は二間半(一間は約一・八メートル)の柄のついた鑓を採用していて、それでも全長は身長の三倍にもなる。信玄は実と柄を合わせて三間の長柄鑓と、二間半の持鑓の二種類を採用し、前者の比重を高くした。鑓の長さの規定がたびたびみられるのは、長さがまちまちでは軍隊の編成にも、じっさいの戦闘にも支障をきたすからであろう。
元亀三年(一五七二)八月、北条氏とふたたび同盟した信玄が関東に出兵する準備として、葛山衆に七ヵ条の定書を発した(『信史』⑬)。そこでも鑓の長さ、小旗・指物の仕立て方から鉄砲の放手と弾・火薬・馬の用意などが指示されている。このときはとくに北条軍と旗を並べて出陣するから、という理由で、武器具の統一が重視され、兜(かぶと)(甲)の全面に飾りとしてつける前立(まえだて)(立物)も統一するようにと命じられている。また、「敵味方の覚えに候の間、知行役のほか、別して人数加増せしめ、軍役を勤めらるべく候」ともあって、同盟軍の北条氏や敵に引けを取らないように兵士の数を増やそうとして、規定の軍役(知行役ともいっている)数より多くの兵士を出すよう葛山衆に求めている。兵隊の数が少なかったり、装備が不統一だったり貧弱だったりすると、それだけで自軍の兵士自身が士気を失い、相手方には侮られることになる。戦闘の前に心理戦で負けてしまうのである。このためどの大名も家臣に規定どおりの武装を求め、破れたものや錆(さ)びたものを用いないよう、金箔(きんぱく)を用いたりしてきらびやかな装備にするよう求めた。
それは家臣にとって大きな負担である。容易にはできない。そこで信玄は、仏事におこなわれる申楽舞(さるがくまい)などのために、妻の衣装を新調したり私宅の造作をしたりするのはやめよ、そんなことにいっさいお金を使わないようにと、わざわざ記している。そこから、葛山衆など武士の生活ぶりがうかがえる。