軍役の強化

907 ~ 912

天正三年(一五七五)五月に長篠の合戦で大敗し、重臣をはじめ多数の家臣を失った勝頼は、領国全体で支配の再建につとめなければならなかった。その一環として、天正四年の二月から五月にかけて信濃でも甲斐でも軍役定書が改めて出されている(『信史』⑭)。二月七日付で海津城主春日虎綱が奉者となって小田切民部少輔に出された軍役定書案は、先掲の大井左馬允あてのものと比較すると興味深い。これは案文(あんもん)(写し)であるが、東福寺(篠ノ井)の浄行寺(じょうぎょうじ)に伝えられた文書であるから、春日虎綱が奉者となっていることと合わせ考えると、小田切民部少輔は虎綱の同心で海津在城衆であったとみられる。

     定 軍役の次第

一乗馬[甲・立物・具足・面頬・手蓋・咽輪・脛楯・指/物四方かしなへにて馬介法の如く持つべし。]     自分共六騎

一持小旗                                               三本

一鉄炮[上手の歩兵の放手あるべし。/玉薬一挺三百放宛支度すべし。]                   六挺

一持鑓実共弐間之(々)中にすべし。                                  六本

一弓[上手の射手、うつほ矢ならび/に根つる不足なく支度すべし。]                    六張

一長柄[実共三間木柄にて(か)、打柄か/実五寸朱してあるへし。]

  以上道具数四拾、乗馬共四十六

右歩衆いずれも甲・立物・具足・手蓋・咽輪・指物有るべし。かくの如く武具を調(ととの)え人数召し連れ、軍役を勤めらるべし。随(したが)って領中荒地のほか申し掠めらるる旨候わば、重ねて御検使をもってこれを改められ、御下知を加えらるべきもの也。よって件(くだん)の如し。

   天正四[丙(ひのえ)/子(ね)]二月七日御朱印                        春日弾正忠

   小田切民部少輔殿                                      奉之

 左馬允と同じく、民部少輔自身をふくめて全部で四六人、騎馬は六騎である。騎馬と歩兵の比重に変化はない。長柄の数が書かれていないが一九となるはずで、この数は左馬允の三一本と比べて一二本も少ない。持鑓は二本にたいし六本と四本増になってはいるが、鑓の合計は三三本から二五本と八本も減っていて、鑓の比重を小さくしたのが特徴のひとつである。しかし、なんといっても大きな変化は鉄砲を一挺から六挺へと六倍に増やしたことである。長篠で信長の鉄砲隊の威力を目のあたりにして、鉄砲装備に力を入れるようになったのである。弓も一張増やしている。鑓で突きあう接近戦の装備の比重を従来より小さくして、離れて飛道具を使う戦術がとれるようにしたことになる。鉄砲には上手の放手を、弓にも上手の射手をそろえること、鉄砲一挺あたり弾と火薬を三〇〇発分、弓矢も十分支度するよう命じている。また、歩兵にも前立のついた甲を着用させよと定めているのも新しい規定である。

 大日方佐渡守は歩兵九人の軍役を命じられたが、そのうちに鉄砲一挺を、大滝宮内左衛門は自身の乗馬のほかに、五人の歩兵のうちで鉄砲一挺を義務づけられた。全部で六人の軍役は小身の武士であることを示すが、そうした階層にまで鉄砲装備を義務づけることは、信玄の代には考えられなかったことである。

 これについで、天正六年八月二十三日にも五点の軍役定書が出されている(『信史』⑭、補遺上)。西尾張部(古牧)や長沼に所領をもっていた島津左京亮泰忠にたいして出されたのを示そう。

   丁丑(ひのとうし)(天正五年)定納合百廿貫四百文

一乗馬[甲・立物・具足・面頬・咽輪・手蓋・脛楯・指物/四方か、しないか、馬介法の如くたるべし。]

一持小旗                                               壱本

一鉄炮[上手の放手あるべし。玉薬壱/挺ニ三百放宛支度すべし。]                     壱挺

一弓[上手の射手あるべし。矢うつぼなら/びに根つる不足なく支度申すべし。]               □帳(張)

一持鑓[実共仁間々中たるべきの事。/]                                 □本

一長柄[実共三間、木柄か、打柄か、/実五寸朱してあるべし。]                      四本

    以上廿人何も歩兵、武具あるべし。

右、かくの如く有道具帯し来り、軍役を勤めらるべし。重ねて御糺明を遂げられ、御印判をもって定めらるべき旨、仰せ出(い)だされ候もの也。

   天正六年[戊(つちのえ)/寅]

        今井新左衛門尉(信衛) □□(朱印)                            八月廿三日

        武藤三河守(常昭)   □□(朱印)                       島津左京亮(泰忠)殿

 従来と異なる点はまず、最初に天正五年の定納貫高を記している点である。他の三点も同様で、じっさいに前の年の分として、年貢等をどれだけ取ることができたかを調べたうえで、その貫高に応じて軍役を定めたのである。島津泰忠は、右の文書の差出人である今井氏と武藤氏にあてて、天正六年七月二十七日付で知行地ごとに定納高の報告をしている(表1参照。『信史』⑭)。それによると、米や雑穀合わせて六〇二俵と計算され、それを銭に換算して一二〇貫四〇〇文となったのである。

 このとき、寺院もまた所領の定納高の報告が命じられ、軍役も定められた。須坂市本上町にある勝善寺の史料が残っている。それによると、まず七月十三日付で今井と武藤にたいし、所領の定納高と上司貫高(後述)について正しく申告をすること、寺領の外の近くの村を寺領であると偽りの申告をしないこと、もし申告に不正があると訴えでたものがいて、不正であることが明白になったら、所領を全部没収されても恨みに思わないことなどを誓約した起請文(きしょうもん)を提出している(『信史』⑭)。そのうえで七月十九日付で定納高を申告した(『信史』⑭)。それによると、本領は上司貫高一八貫文にたいし定納高は米一八俵、雑穀四俵、居屋敷一間、もう一ヵ所の所領の合津分は上司一八貫にたいし定納高雑穀三五俵、屋敷一〇間であった。そして、八月二十三日付で出された軍役定書では、定納一一貫四〇〇文について長柄鑓一本の軍役と定められた。

 原伝兵衛は定納四九貫七〇〇文にたいし、乗馬一、鉄砲一、持鑓一、長柄一、持小旗一の計五人、玉井源右衛門は定納二一貫文にたいし、乗馬一、長柄一の計二人となっている(伊藤左京亮はいずれの数も不明)。これらから、五〇貫文以下については、およそ一〇貫文に一人の割合で軍役数が定められ、一〇〇貫文以上ではその約二倍となっていて、所領の規模により割合を変えているようにみえる。ただし、前記の小田切民部少輔が四六人中乗馬六・鉄砲六であったのにたいし、島津は二一人中各一人と乗馬と鉄砲の割合が非常に少なくなっているのが特徴で、その分で全体の人数を多くしたことも考えられる。鉄砲を購入したり、馬を購入・飼育したりするのは多くの銭と労力が必要だったからである。

 長篠の合戦の大敗後、態勢の立てなおしにやっきとなっていた勝頼は、天正三年十二月、小県郡の小泉昌宗に一八ヵ条の条目を発している(『信史』⑭)。来年は尾張・美濃・三河・遠江(とおとうみ)の織田・徳川領に出兵して、当家興亡の一戦をする覚悟であるから、隠遁(いんとん)・蟄居(ちっきょ)している武勇の輩(ともがら)を召しださせ、軍役数より多くの人数や鉄砲の弾・火薬を用意せよ、衣装に銭を費やさず武具を調(ととの)えよ、鉄砲が重要だから、長柄鑓より鉄砲をもって出陣せよ、などと命じている。前記のような天正四年の軍役定書は、このような決意のなかで出されたものであり、したがって家臣にとっては非常にきびしい負担を強いるものであった。おそらく、不満が高まったであろうし、定書どおりに鉄砲や馬などを調達するものは少なかったであろう。このため、天正六年には抜本的な対応を取ることになったとみられる。それが、奉行を派遣して、家臣と寺社それぞれに、所領ごとに上司貫高と定納高を正確に申告させ、定納高を基準に軍役を定めることであった。そして、おそらく軍役数の決定においては、乗馬と鉄砲の割合を天正四年の規定より減らすという方針がとられたのであろう。その背景に、越後上杉氏との同盟成立で、北信の軍事的緊張が緩和したという事情もいくらかはあったかもしれない。