永禄(えいろく)元年(一五五八)四月、武田信玄は上杉軍が侵入してきたときの北信の守備体制について定めた。文書の前のほうが欠けているため全貌(ぜんぼう)はわからないが、柏鉢(かしわばち)城(中条村)、大岡城(大岡村)とならんで東条(ひがしじょう)城(松代町)がみえ、在城衆・真田幸綱・小山田備中守昌行・佐久郡北方(きたがた)衆が籠城(ろうじょう)することと定めている。
東条城は弘治(こうじ)二年(一五五六)八月ころに真田幸綱によって攻め落とされた尼巌(あまかざり)城のことで、海津城が築城されるまで、川中島四郡のうち東南部の最重要防衛拠点であったが、海津城の築城によってその役割は海津城に移ったと思われるので、この時点では海津城はまだできていなかったと考えられる。永禄三年九月二十三日、信玄は内田監物(けんもつ)が「海津在城」をするのとひきかえに、監物の知行地の普請役を免除すると約束した。これが海津城の初見である。監物は弘治元年に佐野山(更埴市)在城を申しつけられていたから、そこから海津城に移ったのであろう。これより三ヵ月前の永禄三年六月十五日、香坂(こうさか)筑前守はある城に在城して奉公したのにたいする恩賞として、横田(篠ノ井)三〇〇貫文を宛行(あてが)われた。同人は弘治二年五月に、のちの海津城に近い八郎丸郷(松代町)を信玄から宛行われているし、香坂氏・屋代氏らが築城に従事したとも伝えられているので、在城した城が海津城の可能性は高い。もしそうだとすると、少なくとも三年六月には城はできていたことになろうが、今のところ築城の確実な年月は不明で、永禄元年五月から同三年九月までのあいだとしかいえない。
海津城築城以前、北信への作戦基地は飯富(おふ)兵部少輔虎昌が在城した塩田城(上田市)であった。弘治三年二月の葛山(かつらやま)城(芋井)落城をうけて越後勢が出陣してくると、木島出雲守・原左京亮(さきょうのすけ)ら前線にいた武士から信玄に情報が注進されたが、両者のあいだを仲介するものとして飯富虎昌が指名されている。また、上杉謙信が千曲川の東、野沢温泉のあたりに兵をすすめて、信州の東北端、越後との国境にあって武田方についた市川藤若が窮地におちいったときには、後詰(ごづめ)として、塩田城から足軽など五〇〇人余が東条城の真田のところに派遣された。藤若が謙信方にくだることを恐れていた信玄は、今後同人から注進がありしだい、信玄に届けるまでもなく、飯富虎昌の判断で塩田在城衆を救援に派遣するよう虎昌に指示している。
さて、以上の点から、北信の敵方の情報は塩田城の飯富虎昌を介して信玄に届けられ。軍事行動の指示は信玄から出されるのが原則であったが、緊急事態にさいしては信玄の指示を待つことなく、飯富の判断で兵を動かすことができるようになったことがわかる。このような機能を海津城の春日虎綱が継承するのである。しかも、西上野が武田領に入ると、そこでの軍事行動や武将たちへの指揮権をもつようにもなる。ただし、それは恒常的なものではなく、永禄末年から元亀(げんき)年間(一五七〇~七三)、すなわち一五七〇年前後の数年間であったり、真田の権限を侵害しないような限定されたものであったかもしれない。
春日虎綱は信玄の側近であったが、更級郡牧城(信州新町)によって川中島四郡の西部に勢力をもっていた滋野系香坂(こうさか)氏の家をついで、はじめ香坂弾正左衛門尉(じょう)と名乗った。初見は永禄二年十一月二十日に信玄が屋代政国に福井(戸倉町)・戸蔵(とぐら)(同)・新砥(あらと)(上山田町)や山田庄のうちの中内河(なかうちかわ)(戸倉町)で所領を宛行ったときで、信玄の意向を伝達する役目で登場した。永禄六年五月に井上新左衛門尉が高井郡小柳(若穂綿内)・温湯(ぬるゆ)(同)を宛行われたときにも、虎綱は同様な役割を果たしている。永禄六年にはすでに海津城に入っていたとみられるから、入城を永禄二年十一月にさかのぼらせうるかもしれないが、その点は確証がない。しかし、少なくともその時点ではすでに、北信の軍事的中核となるべき役割をになっていたといえよう。
永禄九年九月には春日弾正忠と名乗って、北信の武士に信玄が所領を宛行うときの朱印状の奉者として登場する。これが虎綱の第二の役割であるが、それは右に述べた永禄二年・六年の役割を引きついだものである。虎綱を奉者として信玄から所領を宛行われた武士は、山田飛騨守・同右衛門尉、関屋備後守・同源介、滝沢与左衛門尉、関屋源次郎、伊藤右京亮、市川新六郎、関大蔵左衛門尉(本領安堵)で、その所領は更級郡比賀野(ひがの)(川中島町・更北稲里町)、水内郡南高田郷(古牧南高田付近)のほかは高井郡である。寺社では、長沼の西巌寺(さいごんじ)が長沼のうちの本領を安堵され、飯縄(いいづな)明神が上野(うわの)・上屋(あげや)など葛山(かつらやま)地区(芋井)と千田(芹田)・市村(同)などにあった本領の安堵と、入山・南郷・広瀬(芋井)での新地寄進をうけている。また、甲府善光寺の栗田鶴寿(かくじゅ)も千田・市村で新地を宛行われたが、このときは朱印状でなかったので、虎綱と釣閑斎(ちょうかんさい)から口上が述べられることになっている。
このようにみると、虎綱が奉者となって知行を宛行われた武士・寺社はわずかで、その所領もひとつの郡に限定されていないことに気づく。北信の武士や寺社がすべて虎綱を介して所領を宛行われたわけではなかった。虎綱のほかには、土屋昌続(まさつぐ)や跡部勝資(あとべかつすけ)らが奉者となっている場合が少なくないのである。すなわち、所領宛行に奉者となるのは、海津城主としての役割ではなかったということになる。しかも、海津城に在城した内田監物の普請役免除の朱印状は、永禄三年と天正三年(一五七五)、同八年とも土屋右衛門尉を奉者として出されているので、海津在城衆全員の奉者を勤めたわけでもなかった。したがって、虎綱が奉者となっている武士は、その当時のかれの同心(寄子)衆であったと考えるのが妥当なところであろう。なお、『甲陽軍鑑』によれば、海津城二の郭(くるわ)には小幡(おばた)山城守が入り、足軽大将の原与左衛門(山城守の婿)・市川梅隠斎等長(山城守の縁者)も海津在城衆であったという。