郡司としての海津城主

915 ~ 918

さて、春日虎綱の役割の三つめは城主の地位と不可分のものである。永禄九年十月二十八日、虎綱は山田(左京亮ヵ)にたいし、山田の知行地の山の木を伐(き)るときには虎綱から使者を派遣してあらかじめ届けでたうえで伐ること、そうでない場合にはだれであっても伐ることはできないとして、山田氏に優遇措置をとった。これは虎綱が海津城主の管轄下にある地域で竹木を伐採(ばっさい)する権限をもっていたことを示すが、それは海津城や管轄下の城の普請・作事、あるいは出陣中の陣屋・陣地の築造に使用するものであろう。

 山田左京亮と須田氏が所領をめぐって争い、提訴したとき、信玄の指示により虎綱は自分の考えを代官を通じて上申している(『信史』補遺上)。これによれば、大名の家臣同士の訴訟の裁判権は虎綱にはなく、大名にあったが、虎綱は事実関係を調べてみずからの意見も上申する役割をもっていたことがわかる。

 以上の二つの権限は、天正十年に上杉景勝が北信を掌握して海津城に村上景国を入れたときに、景国に申し渡した五ヵ条の覚書のなかにもみえる。その第一条には「郡司(ぐんじ)の儀、春日古弾正(虎綱)申し付くる如くたるべきこと」とあり、景国が郡司として海津領でおこなう行政は虎綱の権限を引きつぐものであった。また第三条で、海津在城の侍が景勝に訴訟をおこなうときは人を差し添えるようにとあるのも、右にみた虎綱の役割と通じるものであろう。ただし、虎綱の意見上申が在城衆の訴訟にのみ限定されていたか否かはわからない。第五条には「城林のこと、信玄・勝頼申し付けらるる如くたるべきこと」とあるのも、竹木の伐採権をもっていた虎綱の権限を継承するものであろう。

 このように、上杉氏の時期の海津城主の権限は、基本的に春日虎綱がもっていた権限を継承していることがわかる。このような行政権をもつものを上杉氏は郡司といっており、武田氏のもとでも諏訪郡や伊那郡に郡司がいるので、虎綱を郡司と表現した史料はないが、海津城主虎綱は郡司であり、かつ軍事指揮者でもあるという両方の権限を兼ねそなえていたといえよう。天正六年五月、諏訪社の祭祀(さいし)復興をはかる勝頼は、先例等を尋ねるため、高井郡井上庄(須坂市)の百姓の有力者(乙名敷者(おとなしきもの))を甲府に参上させたが、春日弾正がその奉者であるのは、行政担当として百姓を参上させる義務を負ったからであろう。

 元亀三年(一五七二)七月、虎綱と上野箕輪(こうずけみのわ)(群馬県群馬郡箕郷(みさと)町)城主内藤昌綱が奉者となった朱印状が、松鷂軒・真田信綱・海野衆ほか三人あてに出された。そこでは欠落(かけおち)した長沼の七右衛門・東条の主計(かずえ)ら四郡の一四人の名前を記して、かれらを分国追放処分としたから近辺を徘徊(はいかい)していたら捕らえて注進するよう命じている。これは一四人のものを犯罪者として処罰する検断にかかわる内容であり、北信と西上野の責任者がそれぞれ虎綱と昌綱であった。ここから、虎綱が北信全体の検断権を掌握していたとはいえないが、信玄の命をうけて執行・統轄する権限はもっていたのであろう。これも行政権のひとつである。

 春日虎綱が天正六年六月に亡くなると、子の信達があとを継いだが、天正七年に信達は駿河(するが)三枚橋城(静岡県沼津市)の城将となって移り、海津城には勝頼側近の安部加賀守勝宝(かつよし)が入った。安部勝宝は同年三月、上すげの郷(山ノ内町)をめぐっておきた争いを解決している。同郷は信濃国の二宮(にのみや)である小野社(塩尻市・上伊那郡辰野町)の造営銭を負担していたが、それを徴収する権利をめぐって南方(みなかた)備前守久吉と熊井右馬丞が争い、海津城主に提訴されたのである。勝宝は自分の同心である上伊那衆の樋口源八郎・同作左衛門尉に命じて南方と熊井の争いを仲裁させ、解決に導いた。これは海津城主が裁判権をもっていることを示し、郡司の役割であったのだろう。さきの山田と須田の領地争いは、大名の家臣同士による、大名からあたえられた領地に関するものであったから、大名に提訴されたのであるが、右のような村の役をめぐる争いは郡司に裁判権があったことがわかる。天正八年六月、勝頼は埴科郡耕雲庵(こううんあん)(坂城町)に祠堂銭(しどうせん)利倍徳役と新しくできた在家の郷次(ごうなみ)普請役を免除したが、勝宝はその朱印状の奉者となっている。徳役、普請役を徴収するのは行政権のもっとも重要な権限のひとつであり、海津城主がその役割をもっていたから、耕雲庵が特別に免除されるさいに奉者となったのである。その権限は虎綱の代からあったにちがいない。

 以上から、海津城主の郡司としての権限は、城の所在地の埴科郡および高井郡におよんだことは確かである。

 なお、安部勝宝は天正十年三月、勝頼の敗走にしたがい、甲斐田野(たの)(山梨県東山梨郡大和村)で亡くなった。