牧野島城と在城衆

918 ~ 920

武田信玄は海津城についで、北信濃四郡の西の押さえとして更級郡に牧野島城(信州新町)を修築した。この地はもと牧城によった香坂氏の支配下にあったが、春日虎綱を入れて同家を事実上乗っ取ったのち、永禄九年から築城工事がすすめられた(永禄五年築城説もある)。同年閏(うるう)八月二十七日、信玄は跡部周防(すおう)・中牧越中守・平林式部左衛門尉ら三〇人にたいし、「おとも」の替地として牧山中で一六〇貫文をあたえているが(『信史』⑬)、これが「おとも」の地に牧野島城を築くための措置と考えられている。城は南・西・北の三方を犀川に囲まれた要害の地にあり、川中島-府中(松本市)間の城砦(じょうさい)群のなかの最重要防衛拠点と位置づけられた。さきの永禄九年閏八月の文書は工藤源左衛門尉(のち内藤昌秀)が奉者となっているが、当時同人は深志城将であったから、牧野島城将を深志城将が兼帯するのはこのときすでに始まっていたことになる。のち、やはり深志城の馬場美濃守信春が城将を兼ねた。これは軍事的には深志の城兵と連携して、小谷(おたり)(北安曇郡小谷村)辺から侵攻してくる越後勢に備えるためであろう。


写真30 牧野島城跡
三方を犀川に囲まれた天然の要害の城
(信州新町)

 さきの三〇人は牧野島の在城衆となったとみられる。このなかの中牧氏は、子孫が現在鬼無里村に住んで、多くの文書を伝えているが、もとは牧野島城の南方にあたる中牧(信州新町)に居館と城を構えて、その地名を名字とした武士である。中牧伊勢守は永禄二年九月に中山屋地(やち)と蘆沼(あしぬま)で一五貫文の所領を山とともに宛行われたが、両所は中牧のうちの小字名である。このとき、信玄の意を伝えたのが馬場信春であるから、信春は更級郡西部の武士たちの寄親で、伊勢守は信春の同心であろう。信春が牧野島城将となったのもそのことと無関係ではないであろう。

 前記永禄九年の文書にみえる三〇人のうちには、中牧の近くの吉原(信更町)を名字とする吉原氏が二人、現在も城跡のそばにある普光寺、青原の源八郎と中牧氏・平林氏など、城の近辺に本拠地をもった武士、地侍がかなりいる。名字を名乗らないものも三分の一ほどいる。天正十年七月に上杉景勝からまとめて本領を安堵された一八人のなかに、中牧・平林・禰津・吉原・村越と共通の名字のものを見いだすことができ、新たに日名(ひな)(信州新町)・日熊(ひぐま)(信更町氷熊)という近辺の地名を名字とするものが加わっている(『信史』⑮)。上杉のつくった文禄(ぶんろく)三年(一五九四)定納員数目録には牧野島衆として平林市正・氷熊半左衛門の名がみえる。以上のことから考えて、三〇人、一八人の人びとは牧野島城に配属された牧野島衆で、近辺の村々に屋敷をもち、農業経営もするような地侍を中心とし、ひとつの衆としての結びつきを維持した人びとであったといえよう。

 そのグループのリーダー格であった中牧越中守は、直轄領の管轄などをして勘定奉行といわれる跡部勝忠から、永禄九年九月に中牧のうちの上石津の荒地八貫文の代官に任じられている。直轄領の代官とはいえ、荒地の開発が任務である。越中守にはその期待にこたえられる力があったにちがいない。

 牧野島城将馬場信春が天正三年五月長篠の戦いで戦死すると、香坂左馬助か一時的に城将となったが、同年九月には信春の子信忠にかわった。

 このように牧野島城将が深志城主と兼帯であったためか、馬場氏が春日虎綱のように行政権をもっていたことを示す史料は今のところ見あたらない。行政権のおよぶ牧野島領といったものもなかった可能性が高い。前記の天正十年の村上景国あて上杉景勝の覚書には、郡司について記した第一条に付けたりとして、「牧島、馬場美濃守の在城の時の如し」とあり、海津城主景国が郡司として牧島の行政権をもっていたことが推定される。それは武田領国の方式を継承したと考えると整合性がある。すると、海津城主は前記した埴科・高井両郡に加えて、更級郡にも行政潅をもっていたといえよう。


写真31 牧野島城本丸跡 (信州新町)