長沼城が武田方の城として取り立てられたのは永禄十一年である。同年八月十八日の上杉謙信の書状に「長沼再興の由申し候」とあるからまちがいない(『信史』⑬)。『甲陽軍鑑』にも同年のこととして、「長沼に城をとりたて、其(その)とし辰(たつ)の十月、かの城に信玄公御ふだいのあしがる大将、市川ばいゐん(梅隠)、原与左衛門両人さしをき給ふ也」とある。市川梅隠斎等長・原与左衛門勝重は、これ以前海津在城衆であったと同書にみえるから、そこから移ったことになる。しかし、両人が海津城と長沼城にいたことを示す確かな史料はない。ただし、市川梅隠斎は前記のように永禄元年に大岡籠城衆であったことが確かなので、北信の前線基地につぎつぎと送られた可能性は高い。
永禄十一年に長沼城を取り立てたのは、その年の末に駿河(するが)(静岡県)の今川氏を攻めて駿河平定に専念しようと考えていたからである。そのために信玄はこの年のはじめには北越後の本庄繁長を誘って挙兵させ、自身もそれと連携して越後への侵攻を計画した。一月二十四日には本誓寺にたいし生萱(いきがや)(更埴市)のうちの本領七〇貫文を安堵するかわりに、越後へ向け出陣するさいには野伏を二人出すよう命じた。三月二日には甲斐法善寺ほか一〇ヵ寺に越後出陣の戦勝祈願を命じ、六月三日には出兵したことを大井弾正忠に報じて、同人にも出陣を命じた。七月十日には飯山のあたりで両軍が衝突し、武田軍は上倉(かみくら)城(飯山市)を攻略した。その後上杉は長沼に向かって兵を動かし、国境に近い関山(新潟県中頸城郡妙高村)の新城や飯山城に軍勢を増強したが、信玄はさらに西から越中勢も動かしたため、上杉は三方面に兵力を割かねばならず、重大な危機に直面した。この作戦の最前線基地が長沼城であった。
このように越後に大きな圧迫を加えておいて、信玄は兵を引き、駿河へ向かうことになるが、長沼城取り立てによって、越後国境への圧力は維持できる。かつ、越後方の野尻城と飯山城のどちらから善光寺平へ兵を動かしても、長沼城がその進路をはばみ、海津城と呼応して軍勢の動きを牽制することができる。事実、謙信は本庄攻めに手こずったこともあって、以後川中島に出兵することはなかった。
長沼城は、上洛を視野に入れた信玄の新たな戦略構想のなかで取り立てられた、対飯山城・野尻城・越後国境攻防用の前進基地として、軍事的性格の強い城であった。しかし、これを機に海津城と同じように、長沼城を中心とした長沼領ともいうべき領域支配の体制整備がすすめられたのか、それとも牧野島城と同じく軍事的機能だけの城であったのか、なお明らかではない。だが、城の整備とともに、永禄十一年十月二日には島津孫五郎にたいし夏川(牟礼村)等、長沼城より北の地域を中心とした本領安堵と新地宛行をして、その地域を本格的に支配下に編成する姿勢を示した。葛山(かつらやま)衆にたいしては、地下人(じげにん)の還住(げんじゅう)をうながすため三ヵ年間の普請役免除を承認したのをはじめ、本領安堵と新恩宛行をおこない、荒安(あらやす)(芋井)の飯縄(いいずな)社里宮へも安堵と宛行がなされた。大きな勢力をもっていた飯縄山・戸隠山修験(しゅげん)と社殿の編成がおこなわれるのもこのときである。城を取り立て、支配の遅れている犀川以北を掌握しようとしたのではないかとも考えられる動きである。
天正十年にこの地域が上杉の支配下に入ると、景勝は長沼の旧城主島津忠直を城主に取り立てるとともに、河北郡司に任命し、河北郡司の管轄領域を海津城主・郡司の管轄域から除いている。上杉は北信支配を開始するにあたって、さきに海津城主に関してみたように、武田時代の方式を基本的に踏襲した面が少なくない。「川北」「河北」という地域呼称は、たとえば弘治二年十二月二十四日の西条治部少輔あての信玄の文書に「小田切方川北之本領」とみえ、永禄十年五月に関屋源次郎が「河北中□之郷」を(『信史』⑬)、天正八年十二月に真下但馬が「信州河北之内反町(そりまち)分」を宛行われているなど(同⑭)、武田の時代にも使われていた。また、近世の松代藩の行政区域のひとつに川北通がある。犀川以北という単なる地域呼称から行政単位への変化が武田時代にあって、そのときの河北地域の郡司の制度を上杉が踏襲したと考えられないであろうか。
天正十年に、上杉が葛山衆にたいし、緊急事態が発生した場合にはただちに長沼城へ移って城主の指示にしたがうよう命じたのは、武田の時代にも葛山衆が長沼在番衆であったからであろう。また、葛山のうちには勝頼の代に直轄領があり、そこから長沼に納められていた年貢は、今度は島津に渡すようにとも命じている(『信史』⑮)。葛山の地が長沼領であったからではないだろうか。武田時代の河北郡司については今後の検討課題としよう。