上杉氏との戦争で大規模な軍事行動がたびたびおこなわれたから、兵糧(ひょうろう)の備蓄、鉄砲・鑓(やり)・弓矢・刀等の武器の調達と備蓄の必要から、多くの武田氏直轄領が北信に設けられたと考えられる。しかし、史料でわかるところは少ない。前記の葛山、中牧氏が代官となった中牧のうちの上石津のほかには、永禄十一年に「坂木之御料所」がみえる(『信史』⑬)。村上氏敗走直後から設けられていたのであろう。ここには直轄領の年貢等を納める蔵もあって、同地の塚原五郎左衛門尉が、蔵米の収納と蔵の番を担当していた。また同人は松茸(まつたけ)の進上も命じられているから、松林のある山も直轄領のなかにはあったのであろう(『信史』⑭)。
上杉との同盟成立後の天正八年には、大滝土佐守が信玄からあたえられていた清白寺などの知行分を返上するかわりに、戸狩(とがり)郷(飯山市)のうちで六〇七俵を宛行われ、増分があれば飯山の蔵に納めるよう指示されている(『信史』⑭)。飯山に直轄領の年貢等を入れる蔵があったことがわかる。
天正十年七月十三日、上杉景勝は長沼城主に任命した島津忠直に、直轄領として、真弓田(若槻の檀田(まゆみだ))三〇〇俵、山田(若槻稲田)一八〇俵、北尾張部(朝陽)三五〇俵、吉村(若槻)のうち六〇俵、南郷(豊野町)三五〇俵、浅野(同)のうち堀分一〇〇俵の六ヵ所を預け、ほかに長沼と津野(長沼)は忠直の知行地として宛行っている(『信史』⑮)。これらの地はもと武田の直轄領であったと考えられる。
七月二十八日に景勝は布施(篠ノ井)のうち河野因幡(いなば)分、高梨領大熊郷(中野市)料所分、桑原郷(更埴市)料所分、今井郷(石渡)小山田分を板屋佐渡守光胤(みつたね)に宛行った。河野因幡と小山田は武田家臣であったから、「料所分」というのも武田氏の直轄領を意味しているであろう。大熊郷と桑原郷に直轄領があったことがわかる。したがって「八幡料所」とある八幡(やわた)(更埴市)にも直轄領があったとみてよいであろう(『信史』⑮)。
村上氏と島津氏の本拠地であった坂本や長沼に直轄領があったことから、越後に逃げた高梨・須田・井上氏の本拠地も直轄領となった可能性がある。室町時代から戦国時代にかけて、それら国人の城館周辺には小規模ながら町場が形成されて、一部の家臣の屋敷や商人・職人の住居・店舗もあって、月に三度か六度の定期市(三斎市(さんさいいち)、六斎市)が開かれるなど、地域の経済の中心になっていたと考えられる。そのような場を大名としても掌握する必要があったからである。坂木や飯山に武田の蔵があったのも、単に備蓄のためばかりでなく、町・市で米などを売却して銭にかえたり、軍需物資の購入にあてたりするためであった。したがって、海津城や長沼城にも蔵がいくつも設けられていたにちがいない。